小説 北本市議会
番外編 マレーシアプロジェクト始動 1
作 高橋伸治

1.上田リポート

2012年(平成24年)7月、上田清司埼玉県知事の「上田リポート」が届きました。5月に開催された「上田ーマハティール会談」の記事が一面を飾っていました。
埼玉県とマレーシアの今後の関係強化を約束した会談でした。
マハティール・ビン・モハマド氏は、1924年に生まれ、1981年から2003年までマレーシアの首相を務め、2012年当時は引退していました。その後、2018年5月に、中国に寄りすぎたナジブ政権を倒して、奇跡の復活を遂げました。
マハティール氏は、日本の明治維新と第二次世界大戦後の復興を高く評価し、在任中、「ルックイースト」を標榜し、日本を見習う政策を行いました。
具体的な事業の一つとして、在任中に、2万人を超える国費留学生を日本に派遣しているとのことです。その留学生たちは、医者・技術者¥企業人・行政人として、現在のマレーシアを支えています。
マハティール氏が日本をリスペクトしている証拠のエピソードとして、日本の菓子パンの店をマレーシアに出店しがあります。
さて、私はその前年の2011年(平成23年)の4月に北本市議会議員に当選し、その年は2年目を迎えていました。
市議会では、概ね3月、6月、9月、12月4回の定例会を開催し、市長から提出される予算・決算や各種条例等の議案の審議・採決以外に、市政全般に関する一般質問が行われます。
上田リポートが7月に届きましたので、私は2012年9月、北本市議会第3回定例会の一般質問において、「北本市も、埼玉県に同調してマレーシアと交流を行うのはどうだろうか?」と提言しました。
これが、私とマレーシアとの関係の始まりでした。

2.石津市長の一言

2012年9月の北本市議会第3回定例会における私の一般質問への反応は、議員も職員も全員「キョトン」という感じでした。
多くの議員と市の職員たちも、マレーシアが東南アジア諸国連合(ASEAN)の一国であることを知っているくらいで、日本との位置関係も、国の大きさも、人口も知らなかったと思います。
私の持ち時間1時間の一般質問が終了して、短い休憩に入るわけですが、当時の石津賢治市長が私に、「高橋さん、それほどマレーシアとの交流を提言するなら、一度行ってきたらどうですか?」と声を掛けてきました。
その一年後、「新駅賛否の住民投票」を契機に私と石津市長との関係は悪くなるわけですが、その時点では普通の関係でした。
つまり、彼の発言にはそれほどの悪意があったわけではないと思います。
しかし、私としては「痛いところを突かれた」と感じました。
私は、1980年代から1990年代にかけて、仕事でアメリカ、香港、韓国、遠くはブラジルを訪問したことがありました。しかし、その後、地域の市民活動を中心にしていましたので、1998年のブラジル訪問以来、15年以上も日本に引きこもっていたからです。

3.ペナン島の話題

ここでお話ししている時点から11年ほど遡りますが、私は「パソコン・インターネットの普及とSOHO事業者の支援」を目的とした「埼玉SOHO」というNPO法人を、2001年に設立しました。
埼玉SOHOについての物語は別の機会に譲りますが、設立前後にこの活動に参加してくれた仲間の中に、退職後の海外移住を考えている人がいました。
その候補地として、マレーシアのペナン島が挙がっていました。
マレーシアは、マレー半島の大部分とボルネオ島の北部(ボルネオ島の4分の1/南部の4分の3はインドネシア領)で構成された、立憲君主制の国です。2001年当時、面積33万平方キロ(日本:38万平方キロ)人口2,500万人(日本:1億2,500万人)でした。
ペナン島はマレー半島のインド洋側に位置し、南北25キロメートル、東西15キロメートルの島で、人口は70万人ほどでした。
東南アジアにおいては、ロングステイ・移住先として、最も人気がありました。

4.タイとペナンとんぼ返りの訪問

2013年(平成25年)の2月の初旬、議員仲間4人(タイに詳しい先輩議員と一期生3人)で、タイを訪問することになりました。
言うまでもなく、公費ではなく、自腹でのことです。
私は、その際、中抜きでマレーシアペナン島も訪問することにしました。バンコクとペナン島は直線距離で1,000キロメートル、直行便があり、1時間半の飛行時間でした。
タイとマレーシアはマレー半島の付け根で陸続きであり、北緯で言うと、バンコクが13度、ペナン島が5度という位置関係にあります。因みに、日本の東京は北緯35度くらいです。
15年ぶりの海外渡航で、かつ単身での外国から外国への移動はかなりの緊張感がありました。
つまり、タイで1日、ペナン島で2日、タイに戻って2日という、総理大臣の外遊と同じような目まぐるしい日程だったわけです。

5.菩提寺住職の人脈

さて、話はまた2012年(平成24年)の10月に戻ります。
前述したように、2012年9月議会において、私が北本の国際化を提案した次の月です。
実は、その前年の2011年(平成23年)、私は北本市議会議員に初当選したわけですが、半年後の11月に父が亡くなりました。ですから、2012年の11月、一周忌を迎えていました。
高橋家の菩提寺は、東京都港区の増上寺の末寺「心光院」です。
(高橋家と菩提寺のかかわりについては別の機会に譲ります。)
心光院の戸松義晴住職は、ハーバード大学留学経験を持つ国際派の方で、浄土宗宗門の役員どころか、日本仏教連盟の事務総長も務め、日本を代表して、ローマ教皇にお会いする立場の方です。
一周忌の打ち合わせの中で、マレーシア訪問を考えていることを話しますと、「世界仏教連盟の副会長のお一人が、マレーシアの方で、何回もお会いしたことがあります。連絡をとってみましょうか?」と仰っていただきました。
多少厚かましいとは思いましたが、同世代ということもあり、その世界仏教連盟副会長の方と連絡をとっていただくことをお願いしました。

6.ペナン島在住のタンさん

2012年(平成24年)11月、父の一周忌を終えて、戸松住職は約束通りマレーシアの知人と連絡をとってくれ、私がマレーシアを訪問する際にはお会いできることになりました。
「タンさんという方で、ペナン島にお住いの中国系の方です。中学校の校長を退任していて、英語はかなり話せますよ」ということでした。
10月に「知人がいる」と伺った時点で、私はその方の民族については質問しませんでした。後から考えてみると、仏教連盟の副会長ということは中国系の方ということだったわけです。
因みに、マレーシアはマレー系の人が3分の2、中国系の人が4分の1、インド系の人が8%の構成であり、概ねマレー系の人はイスラム教徒、中国系の人は仏教徒、インド系の人はヒンドゥ教徒ということです。
私は、住職の知人がペナン島に住んでいることに驚きました。
当時の人口比で、マレーシアにおける中国系の人口は全体の25%、ペナン島は中国系の比率が高い方で、40%以上ということでした。
単純計算すると、マレーシアのペナン島にタンさんが住んでいる確率は20分の1でした。
このマレーシアの物語は、不思議な偶然の連鎖なのですが、初めにこのことに気づいたのは、高橋家の菩提寺心光院戸松住職から紹介いただいたタンさんがペナン島に住んでいることがわかった時でした。

7.ホテルのグレード

2013年の2月4・5日にペナン島を訪問したわけですが、近所で親しくしている、旅行業界40年の久保田忠治さんに飛行機とホテルを手配してもらいました。
「たまに行く海外旅行はいいホテルに泊まった方がいいよ」
ということで、プライベートビーチのある、ゴールデンサンズという五つ星のホテルに滞在しました。
後日、先輩議員の諏訪善一良さんから、
「海外で人と会う場合は、どのランクのホテルに泊まっているかで、当人が値踏みされるからね」
と言われました。
久保田さんのアドバイスは正解だったわけです。
因みに、タイでのホテルは、二つ星のエコノミーホテルでした。タイの要人と会合を持つわけではなかったので、それで良かったわけです。
参考までに、マレーシアの経済力の中で、個人所得をみると、日本が3倍以上になりますが、ホテルの料金で比較すると、2倍くらいの差になります。
具体的にいうと、日本では一泊2万円以上の四つ星ホテルに1万円前後で泊まれるということです。

8.タンさんの息子さん

2013年2月4日、ペナン空港にはタンさんの息子さんが迎えに来てくれました。
ニックネームはジョー、日本の静岡大学に留学して卒業、日本の自動車デザインの会社に就職し、当時は上海オフィスに勤務していました。
参考ですが、2020年現在、マレーシアの総人口は約3,200万人、そのうち中国系の人口は約700万人と推計されます。
因みに、総人口2億7,000万人のインドネシアは、中国系の人口は1,200万人以上、シンガポールの総人口約560万人、中国系は400万人以上と思われます。
当時、中国系の人たちの歳時記に疎かったのですが、私の旅程は中国の正月に当たる「春節」の直前でした。
ジョーさんは早めに休みをとって、ペナンに帰省していたわけです。
あるいは、私の訪問に合わせていただいたのかも知れません。
単身ペナンを訪問することを決めて、いい加減な英会話力で、何とか乗り切ろうと思っていました。
ところが、ジョーさんが二日間アテンドしてくれて、マレー語や中国語、さらに英語から日本語へと津訳してくれたので、私の英会話力を発揮するチャンスを失ってしまいました。
要するに、ジョーさんは4か国語を使いこなしていたわけです。
本当にお世話になりました。

9.マラッカ海峡の北端ペナン島

マレーシアのペナン島は、南北に伸びるマレー半島と、同じく南北に伸びている、インドネシアのスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡の北端に位置し、マレーシアでは首都クアラ・ルンプールに次ぐ第二の都市となっています。
さて、世界史的にみると、15世紀の末から始まる「大航海時代」、先行したのはスペイン・ポルトガル・イタリア、次いでオランダがアフリカ・アメリカ・アジアと植民地を求めて進出しました。
遅れて進出したイギリスは、18世紀後半になって、ペナン島に拠点を設けました。
その後、マラッカ、シンガポールを占領することになります。
ペナン島には、当時の英国王の名を冠した「ジョージ・タウン」が生まれ、2008年にマラッカの歴史的な市街と合わせて世界遺産になっています。
前述したように、ペナン島は、世界的にロングステイの人気の地であり、同時に、1980年代にIT系の日本企業を誘致して、マレーシアの「シリコンアイランド」と呼ばれています。
これも前述しましたが、埼玉SOHO創立時の仲間も、ペナン島に進出した、クラリオンのOBとNECのOBの方でした。
その他にも、東芝・パナソニック・ソニーなどのIT関係の企業が進出しています。

10.タンさんの配慮への感謝

2013年(平成25年)2月の最初のマレーシア訪問は、正直に言うと、後付けのアリバイ工作のつもりでした。
前年の9月議会で、石津市長に指摘された、マレーシアに行ったこともないのに、「何がマレーシアとの交流だ」という誹りを回避することが目的でした。
しかし、菩提寺の戸松住職に紹介されたタンさんが素晴らしい方でした。
私の訪問に合わせて、日本総領事館、日本人会、地元のロータリークラブへの訪問をセッティングしてくれていたのです。
前述したように、ペナン島市は、首都クアラ・ルンプールに次ぐマレーシア第二の都市であり、日本外務省は大使館に次ぐ、マレーシア全体の3分の1にあたる北部6州を統括する総領事館が置いていました。
領事館は、大使館の業務である外交については補完的な機能しか果たしませんが、外国における日本人の駐在員や一時的に滞在している旅行者の便宜を図ったり、その国から日本を訪問する人にビザを発給する役割をはたしています。
総領事館はいくつかの領事館を統括していて、責任者の総領事は駐在大使に次ぐ立場の方であり、普通の旅行者が会えない存在でした。

11.日本総領事館訪問

2013年(平成25年)2月4日、タンさん親子と私は日本総領事館を訪問しました。
後ほど、総領事館室での写真撮影は許されましたが、建物外観と内部の事務所の撮影は、セキュリティの問題で許されませんでした。
お会いした、野田総領事は、私と同世代で、前年の夏に着任した方でした。
野田さんによると、埼玉県では、朝霞市がペナンの小学校と継続的に絵画を通じた交流をしているということでした。
また、着任して一番驚いたことは、海外からの年間観光客が総人口と同じ2,500万人ということだったそうです。
当時の日本の海外からの観光客は800万人に達していませんでした。
北本市の代表でもなく、具体的な目的もなかったわけですから、総領事とお会いできたのはタンさんの威光のおかげでした。
これに関連して、地元のロータリークラブの昼食会にもお招きいただいたわけですが、当日は私以外にも海外ロータリークラブからのゲストが同席していました。
ライオンズクラブもそうなのでしょうが、ロータリークラブの国際ネットワークは大したものだと、勉強になりました。

12.ペナン日本人会訪問

2013年(平成25年)2月5日、ジョーさんに案内されて、ペナン日本人会を訪問しました。
その後、クアラ・ルンプールとシンガポールの、大規模な日本人会も訪問しましたが、ペナンの日本人会の建物は、広い芝生の庭に囲まれた、白い小ぶりな、いい感じの洋館でした。
当時ペナンには、仕事で赴任している方々と、ロングステイしている方々と合わせて、2,000以上の日本人が暮らしていると言われていました。
その内、1,000人くらいの方がメンバーということでした。
日本人会の事務局長は、宗さんという方で、先祖は中国系、何代か前に日本に帰化したということでした。
ペナンの東芝工場に8年間勤務して、退職後、日本人会の事務局長を引き受けたそうです。
「いくつか海外に住みましたが、ここが一番住みやすいですね」と仰っていました。
当日は、何かのサークルの集まりがあり、その他にも、図書館に本を借りに来ている方々もいました。
運営方法を詳しくは聞きませんでしたが、マレーシアから誘致を受けて進出した日本企業が最大のスポンサーであることは間違いないと思います。

13.タイとマレーシア

2013年(平成25年)2月に最初のマレーシア訪問をしたわけですが、前述したように、タイもバンコクだけですが訪問しています。
ここで、タイとマレーシアを少し比較してみましょう。
先ず、位置関係ですが、それぞれの首都のバンコクとクアラ・ルンプールの経度緯度は、バンコクが東経100.5度北緯13.8度、クアラ・ルンプールが東経101.7度北緯3.1度です。
これでわかるように、経度はほぼ同じ、緯度で10度と少し違います。同じ経線上で緯度が1度違うと110キロメートル離れていますので、両首都間の直線距離は1,200キロメートルくらいです。
参考ですが、東京の経度緯度は、東経139.4度、北緯35.4度、クアラ・ルンプールとの直線距離は5,300キロメートルになります。地球儀で見ると、東京からクアラ・ルンプールは、ちょうど45度の傾斜で左下進んだ位置になります。。
国土面積と総人口を比較すると、両方ともタイの方が大きく、面積で51万平方キロと33万平方キロ、人口で6,900万人と3,200万人(2020年高橋推計)となっています。
再び参考ですが、日本の面積は38万平方キロ、人口は1億2,500万人です。
タイは日本との関係が深く、進出企業数はマレーシアの3倍近いかも知れません。
しかし、ほとんどの人が知らないことですが、一人当たりGDPを比較すると、マレーシアの方がタイの1.5倍もあるのです。
ちょっとしたファクトフルネスですね。
実は、マレーシアは石油と天然ガスが産出されていて、ペトロナスという国策石油会社があり、国家予算のかなりの部分が賄われています。
おそらく、この石油・天然ガスからの原資は、高速道路や港湾設備などのインフラ整備に使われ、産業基盤にもなっていると思われます。
因みに、高速道路に関しては、日本の技術指導があり、何となく、日本の高速道路と似ています。

14.ジム・トンプソン物語

少し、閑話休題気味になりますが、私が中抜きでタイとマレーシア往復した際、議員仲間からからかわれたことがありました。
タイのバンコクに着いた日に、市内観光として、何カ所か訪問しましたが、その中に「ジム・トンプソン記念館」がありました。
ジム・トンプソンは、1906年生まれのアメリカの軍人で、タイの廃れていた「シルク」を復興し、タイ経済に貢献した人物であり、現在でも「ジム・トンプソン」は、シルク製品のブランドにもなっています。
彼は実業家として成功していたわけですが、1967年に事業の関係か、単なる旅行か、マレーシアを訪問し、内陸の高原で行方不明になって、発見されませんでした。
この物語が記念館で話題になり、偶然にして当時の私がジム・トンプソンが行方不明になった61歳という年齢と符合していることに皆で気づいたわけです。
「不吉だ。やめた方がいいよ」という話になりました。
まあ、皆もう忘れていると思いますが。
もう一つタイとマレーシアがリンクしたことがありました。
ご存じの方も多いと思いますが、バンコクには、「ワットフォー」という仏教寺院があり、世界最大と言われる「涅槃仏」で有名です。
「涅槃仏」はご存じのように「横たわるお釈迦様」で、英語では「Reclining Buddha」とされています。
ペナン島で、ジョーさんにいくつか仏教寺院を案内して頂いたのですが、その寺院の中一つに大きな「涅槃仏」がありました。
世界で3番目に大きな「涅槃仏」ということでした。
2日足らずの間に、世界で1番と3番の「大涅槃仏」にお目にかかることになったわけです。
因みに、2番目に大きな「涅槃仏」もマレーシアにあるそうですが、まだ訪問していません。

15.第3回埼玉アジアフォーラム

2013年(平成25年)2月15日、私は先輩議員の黒澤健一さんと、マレーシアをテーマにした埼玉県主催の「第3回埼玉アジアフォーラム」に参加しました。
タイとマレーシア訪問から帰国して、わずか1週間ほどしか経っていませんでした。
実は埼玉県は前年から、県民生活部国際課が中心になって、「アジアの活力を埼玉へ」とのコンセプトの下、「埼玉アジアプロジェクト」事業を開始していました。
この事業の一環として、「埼玉アジアフォーラム」が開催され、この第3回の案内が議会に届いていました。
因みに、第1回は2012年(平成24年)7月に「フィリピン」、第2回は同年10月に「韓国」が取り上げられていました。
埼玉県知事の上田清司さんは衆議院議員選挙に4回落選し、5回目に当選、3期務めた後、2003年(平成15年)から埼玉県知事を務めていました。この「埼玉アジアフォーラム」は、3期目の肝いりの事業と言えました。
一緒に行った先輩議員の黒澤さんと上田知事は、上田さんが衆議院議員に当選する前からの付き合いで、多少義理で参加したきらいがありました。
後日気付いたことですが、そもそも私がマレーシアを訪問するきっかけとなった「上田知事マハティール会談」は、この「埼玉アジアプロジェクト」の前哨戦だったわけです。
当日は、県庁近くの商工会議所ホールに300人近くが集まっていました。
内容としては、マレーシア政府からのダト・シャハルディン・モハマッド・ソム駐日特命全権大使による「基調講演」、モハマッド・ハシム・アブドゥル・ガニ マレーシア投資開発庁東京事務所所長による「企業誘致に関する講演」 公益社団法人日本マレーシア協会専務理事をコーディネータとする、マレーシアと関係する企業人たちによるシンポジウムなどでした。

16.埼玉県県民生活部国際課

2013年(平成25年)6月22日、私は成田を発ち、シンガポールとペナンを訪問しました。
訪問先にシンガポールが加わったのは、埼玉県の国際課を訪ねて、様々な情報を入手してのことです。
埼玉県県民生活部国際課という部署は、国際姉妹州との交流がメイン業務です。
因みに、姉妹州交流をしているのは、メキシコ州(メキシコ)、山西州(中国)、オハイオ州(米国)、クイーンズランド州(オーストラリア)、ブランデンブルグ州(ドイツ)の5州です。
2月15日の「第3回埼玉アジアフォーラムの翌週、私は埼玉県庁第3庁舎の県民生活部国際課を訪ね、その後、長い付き合いになる矢島課長とお会いしました。
矢島さんは、その20年ほど前に、前述した、埼玉県の姉妹州の一つ、オーストラリアのクイーンズランド州の州都ブリスベンに3年間赴任した経験を持つ、県庁内有数の国際派でした。
暫くしてから気付いたのですが、「埼玉アジアプロジェクト」を企画し、「上田知事―マハティール会談」を仕掛けたのは矢島さんであり、私の運命を変えた張本人だったわけです。
さて、前述したシンガポール訪問を加えた理由ですが、国際課のスタッフがシンガポールに赴任していることをお聞きしたからです。
実は、都道府県や市町村の国際化を支援するための組織として「自治体国際化協会」があり、そのシンガポール事務所に埼玉県からスタッフが派遣されていました。
2013年(平成25年)当時、埼玉県としては、シンガポールに2年派遣、2年間は派遣せずを繰り返すローテーションのようでした。
矢島さんからの助言もいただき、シンガポールを訪問し、自治体国際化協会シンガポール事務所で、マレーシア経済に関する「Briefing」を受けることが決まりました。

17.初めてのシンガポール訪問

2013年(平成25年)6月22日成田発午前10時55分の日本航空に乗り、その日の夕方にシンガポールチャンギ空港に着きました。
シンガポール航空との共同運航便でした。
シンガポール航空は、旅行客からの人気投票世界一の航空会社であり、一度乗ってみたいと思っていたので願いがかないました。
因みに、チャンギ空港も人気トップクラスの空港であり、シンガポールが観光や国際会議開催地として、この分野にいかに力を入れているかがわかります。
横道にそれたついでに、シンガポールとマレーシアの関係についてお話ししましょう。
まず、例によって、位置・面積・人口ですが、シンガポールは東経103.8度北緯1.3度に位置し、面積は700平方キロ、人口は560万人(2020年高橋推計)です。
幾つかの島で構成されていますが、イメージとしては少し横長の菱形の島です。
東京23区より少し広く、埼玉県の5分の1の面積です。
人口は、東京都の40%、埼玉県の75%くらいです。
マレーシアの首都クアラ・ルンプールとの直線距離は約300キロメートルと思われます。
実は、シンガポールとクアラ・ルンプールを結ぶ高速鉄道、つまり新幹線建設の計画があり、日本と中国が熾烈な受注合戦を繰り広げていましたが、現在休止されています。
この計画では、350キロメートルを90分で結ぶものでした。
シンガポールは、1966年ジョホール王国から独立しています。そのジョホールは現在マレーシア最南端の州になり、面積は2万平方キロ(日本の四国とほぼ同じ面積)、人口は約350万人です。
この州都はジョホールバル、日本が初めてサッカーワールドカップ出場を決めたラーキンスタジアムがある街です。
シンガポールとジョホールバルはわずか1キロを隔てて、橋で繋がっています。

18.シンガポールお国事情

2013年6月22日、シンガポールチャンギ空港に、前述した久保田さんに手配してもらったガイドが迎えにきてくれていました。
海外旅行の経験豊富な方には釈迦に説法かも知れませんが、パックツアーではなく、オーダーメイドの旅行の場合、飛行機(air)、宿泊先(hotel)、地上手配(land operator)という役割分担があり、これを意識して計画を立てることになります。
地上手配(land operator)はカタカナ英語で「ランオペ」と呼ばれ、食事・ガイド等の手配を行う業者ということになります。
つまり、日本の大手ではない旅行業者は海外のランオペと提携して旅程を組んでいます。
JTBや日本旅行などの大手は、現地事務所でランオペを仕切ることも多いと思いますが、現地のランオペと組むことも少なくないようです。
私は、空港からホテルの送迎だけをランオペに稲買いしました。勿論、実際の手配は久保田さんにお願いしたわけです。
結果として、まる2日間は単独行動をすることになりました。
シンガポールは小さな都市国家ですが、一人当たりのGDPは日本の1.5倍以上あり、アジアで最も経済発展した国と言えます。
前述したように、人口は560万人、民族的には、75%が中国系、13%がマレー系と言われています。
狭い国であり、人口密度も高いわけですが、シンガポールより少し小さい東京23区の人口が900万人ですから、まだゆったりしているかも知れません。
そもそもシンガポールは、中国系のリー・クアンユーという人が建国のリーダーであり、一族の強権支配によって、秩序を維持し、と経済発展を遂げた国です。一部には、「明るい北朝鮮」と揶揄する人もいますが、国のガバナンスが効いているので、旅行者には安全な街と言えます。
このような背景もあって、私は2日間単独で、街中を散策してみたわけです。
宿泊は例によって、旧中心街オーチャードロードの中心にあるマンダリンという五つ星ホテルにしました。
このホテル内には、宝石やアパレルなどの高級ショップもあり、驚くべきことに、日本のラーメン店「一風堂」も入っていました。
シンガポールは日本の銀座並みの物価ですから、確か、豚骨ラーメン一杯が2,000円近かったと思います。

19.シンガポール中心街散策

2013年(平成25年)6月23日、その日は日曜日でしたので、自治体国際化協会シンガポール事務所はお休みでした。
ホテルの人は勧めませんでしたが、私は歩いていけると考えて、マーライオンのところまで歩くことにしました。
ご存じのように、今やシンガポールのランドマークは、屋上の巨大ボートで繋がっている3棟の高層ビル、「マリナ・ベイ・サンズ」です。
宿泊したホテルのあるオーチャードロードからも、建物の切れ目からは見える距離にありました。
オーチャードロードは、日本で言えば銀座大通りに当たりますが、歩道と車道の間の植え込みは高木が続いていて、独特の雰囲気があります。
このオーチャードロードを1キロほど南下すると、マリナ・ベイ・サンズが大きく見えてきます。
マーライオンは、このマリナ・ベイ・サンズの真下にありましたので、そこを目指して行けばよかったわけです。
マーライオンは、ベルギーの小便小僧、デンマークの人魚姫と並んで、「世界3大がっかり」の観光名所と言われていますが、現在のマーライオンは高さ17メートルはあるので、まあ許せる観光名所と言えます。
さて、前述したように、行きは高層ビルであるマリナ・ベイ・サンズが目印になりましたが、さあ、帰りは困りました。
このような時に役に立つ表現が「Where am I on this map?」です。
私は、中心市街地のカイドマップを手に、道行く人にこう尋ねました。
「May be here.」と地図の一点を示してくれました。
「あれ、もしかして?」と思って確認したら、日本人でした。二人して大笑いしました。
結局、教えてもらってからも迷ったりして、何倍かの回り道をして、それでもトラブルもなくホテルに戻れました。
迷いながらも、自分の足で外国の街中を歩くことは、その街の空気感に触れることができて楽しいことです。
前提条件としては、治安の良い国かどうか、全般的に治安が良くても、危険なエリアについて、事前に知識を得ておくことが必要です。

20.自治体国際化協会シンガポール事務所訪問

2013年(平成25年)6月24日月曜日、私は自治体国際化協会シンガポール事務所を訪問しました。
シンガポールの地理を説明するほどの知識はありませんので、島のどの位置かはわかりませんが、マーライオンのブロックから大通りを挟んで、新興ビジネス街があり、その一つの高層ビルの中に自治体国際化協会シンガポール事務所はありました。
埼玉県から派遣されていた長浜さんと現地スタッフのミンさん、このお二人が対応してくれました。
一般財団法人自治体国際化協会は、地方公共団体の国際化推進を目的として、1988年(昭和63年)7月に設立された法人です。総務省・外務省・文化庁と関係を持っています。
英称は 「Council of Local Authorities for International Relations」、略称はCLAIR(クレア)です。
東京都千代田区に本部、海外事務所はニューヨーク、ロンドン、パリ、シンガポール、ソウル、シドニー、北京にあります。
実は、この自治体国際化協会のパリ事務所には、2012年(平成24年)1月に議員仲間3人がイタリアを訪問した際にお世話になっています。
長浜さんとミンさんから、一通りマレーシアの経済マクロ指標などを説明いただき、ミンさんの身の上話になりました。
ミンさんは、マレーシア出身の中国系の方で、シンガポール大学でマーケティングを学んだとのことです。
シンガポールやマレーシアの方のすごいところは、英語・マレー語を公用語として学び、中国系の人は北京語と、広州・福建省などルーツの地域の言葉も話せることです。
因みに、シンガポールの英語は現地化されていて、シングリッシュと呼ばれています。
蛇足ですが、その日も前日同様に市内を散策し、道に迷いました。
例の「Where am I on this map?」を使って現地の方に質問したら、地図の外側を示されました。中心市街地から外に出てしまっていました。

21.日本マレーシア協会

2013年(平成25年)6月24日の夕方、私はシンガポールからペナン島に移動しました午。
距離的には500キロメートルですから、東京大阪間の距離と同じであり、国内便という感じですが、二国間の移動ですから出国手続きと入国手続きが必要です。
空港には、後述するコスモス・プランが手配してくれたガイドのジョニーさんが迎えにきてくれました。
ジョニーさんに、街並みを案内されながらホテルに送ってもらっていました。
2月に訪問した際に、タンさんの息子さんジョーさんにアテンドしてもらいましたが、その際に、「ゴールデンサンズは超一流ホテルですが、順位では二番目、一番はシャングリラ・ラサ・サヤンなんですよ」と教えてもらいました。
それで、話のタネに、今回はシャングリラ・ラサ・サヤンを予約したわけです。
確かに、建物もスタッフの対応も洗練された感じがしました。
さて、ガイドのジョニーさんとの出会いまでのストーリーも不思議なものでした。
今回の訪問前の情報収集のため、前述した「第3回埼玉アジアフォーラム」のシンポジウムでコーディネータを務めた日本マレーシア協会の専務理事新井さんを訪ねました。
公益社団法人日本マレーシア協会のホームページによると、 1956年(昭和31年)外務省の外郭団体として発足しました。
日・マ両国の文化・経済交流の促進及び将来を担う人材の育成のための活動を行っています。
2012年(平成24年)12月3日、内閣府の認可を得て、社団法人から公益社団法人へと移行しました。
新井さんからは、「今後、マレーシアとの交流をお考えならば、コスモス・プランの石原彰太郎社長とコンタクトを取ることをお勧めします」と、アドバイスを受けました。
話しが長くなりましたが、ガイドのジョニーさんは、石原さんの会社の旅行部門の仲立ちだったわけです。

22.ガイドのジョニーさん

2013年(平成25年)6月25日午前9時、滞在していたペナン島のシャングリラ・ラサ・サヤンホテルに、小太りで人が好さそうな、中国系のガイドのジョニーさんが、迎えにきてくれました。
前述したように、今回は菩提寺の住職から紹介されたタンさんには連絡を取らす、埼玉県から日本マレーシア協会、そしてコスモス・プランという尻取りのような紹介の繋がりで、ガイドのジョニーさんに行きつきました。
ホテルのロビーで、ジョニーさんと自己紹介し合いました。その中で「ペナンには2回目の訪問で、前回はこの方にお世話になりました」と、タンさんの名刺を見せて話しました。
すると、ジョニーさんは驚いて、「タンさんは私の義理の兄さんです」と言うのです。
私は、最初、誰でも親戚だという類の冗談かと思いましたが、本当に、タンさんはジョニーさんの姉さんの連れ合いであり、ジョニーさんはジョーさんの叔父さんでした。
どのくらいの確率の偶然なのかはわかりませんが、このマレーシアの物語には出来すぎというか、仏様か神様の悪ふざけかと思ってしまう偶然が多いのです。
そのジョニーさんの姉、タンさんの奥さんと何回かお会いして食事もご一緒したわけですが、その際に、「What brought you to this country?」と質問されました。
私は、「Buddha leads me.」と答えました。後から考えると、それほどシャレた表現とは言えませんが、本心でそう思っています。

23.先輩議員黒澤さんとの珍道中

2013年(平成25年)6月25日午前9時過ぎ、私はガイドのジョニーさんの車に乗り、まず、先輩議員の黒澤さんをピックアップするために、彼の滞在していたホテルに向かいました。
黒澤さんは、前回の私と同様に、単身タイからペナンに来ていました。
黒澤さん本人に言わせると、すでに現役は卒業しているが、若い頃は農業の近代化に取り組み、4Hクラブの全国活動にもエネルギーを注ぎ込んでいました。
1965年には、アメリカのカルフォルニアまで農業研修で留学もしています。まあ、それなりに英語は話せるようです。
実は、私と黒澤さんの間にミスコミュニケーションがあり、彼はペナン空港まで私が迎えにくると思っていて、私は翌日にホテルに迎えに行けば良いと理解していました。
確かに、日本での打ち合わせでは、最初は迎えに行くような話を進めていたのですが、ホテルが決まっていれば、「独りで行けるよね」と私が思い込んでいたわけです。
会うなり、「ひどいじゃないか!」と言われましたが、怒りはそれほどではないようでした。
まず、前回面識ができた総領事への表敬訪問を行いました。
総領事から見れば、「また来たよ」というところでしょうが、市議会議員が二人でしたから、お会いしていただきました。
その後、日本人会にも表敬訪問しました。確か、開発されたばかりの、北本トマトカレー(レトルト製)を手土産に持参したと記憶しています。

24.ペナンの日本人学校

2013年(平成25年)6月25日の昼前に、予定してなかった日本人学校を訪問しました。
治安が悪くない国ですが、学校の正門には警備員が配備され、アポなしの訪問はどうかと思いましたが、「当たって砕けろだ」と黒澤さんの勢いで申し入れると、取り次いでくれました。
ありがたいことに、突然の訪問だったにも拘わらず、校長先生が対応してくれました。
2012年度(平成24年度)の学校要覧によると、小中学校合わせて130名ほどの児童・生徒が在籍していました。在校数のピークは、1993年度(平成5年度)の207名でした。
他のパタンもあるのかも知れませんが、ペナンの日本人学校は日本人会がスポンサーの私立学校でした。ただし、文部科学省から、教員の半数は公費で派遣されていました。
需要と供給のバランスはわかりませんが、教員の希望者が海外の日本人学校に派遣される仕組みになっていました。
因みに、北本市教育委員会事務局である教育部の部長の最近5人の中にも、シンガポールの日本人学校経験者とニューヨーク日本人学校の経験者がいました。
応対していただいた校長先生は、一般教員として1回、教頭として1回、定年してから校長ということで、ある意味、海外での教育にハマっている方でした。
1974年の創立でしたから、校舎は平屋で、昭和40年代の面影がありました。
結果的に少人数学級が実現していて、子供たちの目も輝いているという印象でした。
黒澤さんの厚かましさのお陰で、予定外の貴重な経験をすることができました。

25.お世話になったコスモス・プラン

最初のペナン訪問は、前述したようにノープランでしたが、今回は、ロングステイの仕組みを視察することを目的としていました。
日本マレーシア協会から紹介されたコスモス・プランは、東京事務所が小伝馬町にありました。
今や、国際電話ばかりでなく、メールや時にはスカイプやズームでも海外事務所と直接コミュニケーションできる時代ですが、私としては直接会って話をする方がしっくりきます。少なくとも、最初はお会いしてから、その後のコミュニケーションをしないと落ち着きません。
さて、コスモス・プラン代表の石原彰太郎さんは、日本で証券会社、ベンチャーキャピタルに勤務した後に、1992年(平成4年)マレーシアペナンに移住し、ゴルフ場の開発と経営に従事、1999年(平成11年)にトロピカルリゾートライフスタイル社を設立し、当時までに10,000名を超える日本人のロングステイをサポートしてきました。
2011年(平成23年)に、筑摩書房刊「日本脱出先候補ナンバーワン国 マレーシア」を著しています。
これまで、世界的に、マレーシアがロングステイ先の人気国であることを書いてきましたが、この著作にはその裏付けデータが紹介されていました。
人生観の問題でもありますが、特にアメリカにおいては、高齢になる前に「ハッピーリタイアメント」して、リゾート地で暮らす生き方を理想としている人が多いようです。
このような価値観を反映して、日本でも、「一般社団法人ロングステイ財団」が設立され、啓発活動を行っています。
この財団は「ロングステイ人気ランキング」調査を行っていますが、マレーシアは、タイ、ハワイ、フィリピンなどを押さえて、2019年(令和元年)まで、14年間連続でナンバーワンです。

26.ロングステイ視察

2013年(平成25年)6月のペナン訪問では、ジョニーさんの案内で、ロングステイの3つのパタンを案内してもらいました。
コンドミニアム、戸建て、ホテル利用の3つのパタンです。
当時の経済環境から言えば、コンドミニアム、戸建てを購入して利用し、数年後に売却しても、お釣りがくるようでした。
そこまで踏み切れない場合は、ホテルを好きなだけ借りる方法もあります。ホテルのランクにもよりますが、夫婦で2週間滞在すれば、1泊4,000円台という水準です。
その時点からさらに10年前であれば、物価水準が日本の5分の1でしたから、生活費は日本で暮らすよりも、圧倒的に安上がりでした。
最近では、マレーシアも豊かになってきましたが、それでも物価は3分の1くらいなので、悪くはないと思います。
私の構想では、北本市に「北本市国際化推進協会」なるものを設立し、当初はコンドミニアム、戸建て、ホテルを長期契約で借りるというものでした。将来的に、利用頻度が高くなれば、協会が所有することを考えても良いと思いました。
ほとんど妄想ですが、マレーシアから始め、将来的には世界中に「北本タウン」や「北本ヴィレッジ」が点在し、北本市民とその友人は優待料金で利用できるようにしたいと考えたわけです。
他の市町村に先駆けてこのような国際化が実現すれば、北本市の魅力は向上し、人口減少を食い止めることができます。
小さな市ですので、国際会議場や高級ホテルがある国際都市を目指すことはできませんが、市民の年間海外滞在日数が日本一の市になるのは可能だと思います。
そして、今世紀末には、北本市出身の国際人が数多く輩出されている。そんな街を私は「小さな国際都市」と呼びたいと思いました。

27.コスモス・プラン石原彰太郎社長

2013年(平成25年)6月26日水曜日、私はペナンからクアラ・ルンプールへ移動しました。
実は2度のマレーシア訪問で、最初のクアラ・ルンプール訪問でした。
しかし、その日の夜便で日本に帰ることになっていましたので、クアラ・ルンプール観光はできませんでした。
私は、隣町「ペタリング・ジャヤ」にあるコスモス・プランを訪問し、石原社長にお会いしました。
前述したように、石原彰太郎社長は、ペナン島での旅行会社から始めて、その当時は、本人の活動拠点をクアラ・ルンプールに移し、不動産業と旅行業を営んでいました。
日本のアパマン館と提携し、日本企業の駐在員の住居サポートをしていました。想像するに、アパートやマンションなどの管理、特に水回りに関しては、トラブルが多くて、日本人スタッフがいないと、駐在員たちの不便さは大変なことになるでしょう。
石原さんのオフィスは、そこそこ年季の入ったショッピングモールの上階部にありました。
視力障害が始まっていた時期でもあり、モールもそれなりに大きくて、迷いました。
石原さんは、ほぼ同世代で話があいました。大きな商談を持って行ったわけでもなく、申し訳なかったのですが、私から「チェンドー」というスイーツを食べたい」とリクエストして、ご馳走していただきました。
このスイーツは、マレーシアばかりでなく、シンガポールやインドネシアでも人気のようですから、一度お試しください。
石原さんは、アパマン館ばかりでなく、三井不動産とも関係があり、7月に、「マレーシアのロングスティと不動産投資」をテーマに、東京八重洲でセミナー講師をするということでした。
私も参加することを約束して、その夜に、マレーシアを離れました。

28.マレーシア都市別不動産セミナー

2013年(平成25年)7月、正確な日にちは記憶していませんが、東京千代田区八重洲の貸会議室で、「マレーシア不動産セミナー」が開催され、私は参加しました。
コスモス・プランとアパマンショップの共催の無料セミナーで、30人ほどの参加でした。
その日は、「マレーシア都市別不動産セミナー」として、「クアラ・ルンプール編」「ペナン編」「ジョホール編」の説明がありました。
言うまでもなく、不動産を所有する目的は、「実際に居住」「投資物件」、そして両方ということになります。
投資の場合には、空き家のまま所有し、値上がりを待って売却する方法と、賃貸マンションとして活用する方法があります。
前述したように、マレーシアはロングステイ先として、人気ナンバーワンですが、これは、自然にそうなった訳ではなく、マハティール政権時代に開始された「MM2H」という政策の成果と言えます。
MM2Hとは、「マレーシア・マイ・セカンド・ホーム」のことであり、マレーシア政府が推進している長期滞在ビザです。
現地に一定額を預金し、年間の所得証明などが必用ですが、取得すれば10年間マレーシアに滞在することができます。
為替レートによりますが、900万円以上が預金高の目安です。ただし、日本との大きな違いは、金利が3%以上もあることです。
月収ベースで約25万円以上であることも必要ですので、それなりのハードルと言えます。
勤めている間に取得するか、退職後は企業年金を上乗せして、この水準を超える必要があります。
コスモス・プランは、前述したように、このMM2H取得支援を行っていて、2020年までの実績は10,000人以上とのことです。

29.マレーシアの経済指標

2013年(平成25年)7月に開催された、コスモス・プランとアパマンショップ共催「マレーシア都市別不動産セミナー」ではマレーシアの経済指標が紹介されました。
□2011年GDP8,811リンギット(約26.4兆円)
□産業別比率:
  サービス業  49.2%
  製造業    24.4%
  石油天然ガス 10.4%
  農業     11.9%
□製造業の中には、欧米・日本企業の電機電子産業が含まれます。
□主要輸出品目:
  電気製品・化学製品・石油天然ガス・パーム油
□主要輸入品目:
  製造機器・輸送機器・食料品
以上からわかるように、GDPは日本の20分1、人口が5分の1ですから、一人あたりは4分の1ということになります。
産業構造は、先進国ほどではありませんが、すでにサービス業が最大であり、約半分になっています。
産業別比率にも主要輸出品目にも「石油天然ガス」がありますが、これが他のASEAN各国と比較して、マレーシアの大きな強みになっています。
その当時、ペトロナスという国策石油会社からの利益が国家財政の半分を占めていた。
マレーシアでは、マレー半島を縦断する高速道路と横断する高速道路とが整備されていますが、おそらく、このペトロナスからの財源があってのことだと思います。
これらの高速道路を走ると、日本の関越などと景色が似ています。それもそのはずで、日本の技術指導により整備されたようです。

30.林立するパームヤシ

「29 マレーシアの経済指標」の産業指標の輸出品目の中に「パーム油」がありますが、これは食用から燃料まで広く使われます。
日本ではサラヤの「ヤシの実洗剤」という商品が知られていると思います。マレーシアで少し市街地から離れると一面のパームヤシの林が続く景色になります。
背丈は15メーターくらいで、数メーター間隔で整然と植えられていますので、その下ではスイカなどが収穫できます。因みに、スイカは年に4回とれるとのことでした。
余談ですが、パームヤシについては興味深いエピソードがありますので、紹介します。
元々の原産地は、北アフリカとのことですが、世界各地が西欧により植民地化されるにつれ、南米にパームヤシのプランテーションが展開されました。
一方、東南アジアでは天然ゴムが原産地でもあり、プランテーションの中心生産物でした。
ところが、南米と東南アジアで、それぞれ病害虫などの被害を受け。いつの間にか、南米は天然ゴムのプランテーション、東南アジアはパームヤシのプランテーションと入れ替わってしまったのです。
最近では、インドネシアが1位、マレーシアが2位の生産量で、両国で世界の70%以上のシェアを占めていると思われます。
樹齢は30年ほどで、老木は伐採され、苗の植林が行われている風景が散見されます。
商品取引の対象にもなっていて、かなりの利回りになるので、知る人ぞ知るで、マレーシアに関係する日本人も資産運用の一つとしています。
また、金利が許されていない「イスラム金融」においては、パーム油の売買を通して、金利分の授受を行っているとのことです。

31.マレーシアの巨大開発計画

2013年当時、マレーシアでは、注目すべき巨大プロジェクがト動き出していました。
1 グレーターKL:
首都(クアラ・ルンプール)を世界的な都市にする計画
2 シンガポールとKL間の新幹線建設
3 イスカンダール計画:
最南端の州ジョホール州の巨大開発
以上の3つが主要なものです。
「グレーターKL」の内容としては、高速鉄道網やLCC空港の建設があります。
前述したように、石油天然ガスの産出国であるため、交通手段は自動車道路に偏っていました。
このグレーターKLでは、政策を大転換して、地上路線・地下鉄路線・モノレール路線などを張り巡らし、一気に数百の駅が出現することになっていました。
「シンガポールとKL間の新幹線建設」は、シンガポールとクアラ・ルンプール間350キロメートルを新幹線を敷設して、90分で結ぶものです。
日本と中国が熾烈な受注合戦を繰り広げていましたが、当時のナジブ政権は中国寄りであり、日本が不利と思われていました。
「3 イスカンダール計画」の背景は、シンガポールの拡張の受け皿地域の開発と言えます。
元々、シンガポールはジョホール王国から独立した国であり、わずか1キロメートル幅の海峡で隔てられているだけです。
マレーシアの中国系の人たちは、シンガポールとジョホール州の関係を、香港と深圳の関係に準えていました。
私の関心がこの地域に比重を移すのは、それから3年後のことでした。

32.北本市の新駅問題

2013年(平成25年)7月、私が「マレーシア都市別不動産セミナー」に参加していた頃、北本市では大変なことが始まっていました。
それはその年の12月15日に行われた「新駅建設の賛否を問う」住民投票への序曲でした。
これまで、述べてきたように、私はかなりのペースで、マレーシアに関するいわばリサーチを開始していたわけですが、この事件により、半年以上は停滞を余儀なくされてしまいました。
さて、北本市は、東海道線に次ぐ日本で2番目の歴史を持つJR高崎線沿線の市です。
(高崎線は、一般的には上野を起点として群馬県高崎までの100キロメートルと思われていますが、厳密に言うと大宮から高崎までの路線です)
大宮駅からは、宮原、上尾、北上尾、桶川、北本、鴻巣、北鴻巣、吹上、行田、熊谷の順になります。
この中で、北上尾と北鴻巣は新しくできた駅であり、次は、駅間が4.6キロメートルと広い桶川北本間に新駅が必要とされていました。
この駅は通称「南北本駅」と呼ばれ、その時点で30年以上も懸案となっていました。
当時の石津市長は、立場上、駅建設推進の先頭に立っていましたが、内心はそうではなかったと考えられます。
(JR東日本が、自身の判断で新駅を造る場合は、当然JRが計画し、駅の建設費も負担します。しかし、この南北本駅は、「請願駅」と呼ばれ、地元がお願いして造ってもらうので、建設費は地元負担になります。)
そもそも、駅予定地の西側に立地する企業群、日立と三菱マテリアルとの具体的な交渉がなされていない状態であり、駅建設費の資金計画もできていなかったからです。
そこで、巨額な地方債の発行や市庁舎建設基金の流用など、無謀な資金計画を急遽作成し、住民投票に打って出たわけdす。
「こんな犠牲を払っても駅を造りたいなら、賛成してください」と言わんばかりの行動でした。
住民投票の結果は、75%以上が反対し、否決されました。