北本市市議会議員 高橋伸治のサイトです。分析力・企画力でお役に立ちます

エピソード1 制服から私服へ

1967年(昭和42年)、私は北本中学校を卒業して、埼玉県立熊谷高校に入学しました。
質実剛健と言えば聞こえがいいのですが、素朴な田舎的な校風だったと思います。社会に出てから、浦和高校や全国の進学校の卒業生と知り合って感じたことは、生真面目で、狡賢い生き方ができない人が多いということでした。出世や事業的な成功からは、少し遠いタイプと言えます。
今にして思えば、高校時代は人生において最も密度の濃い3年間だったと思います。学業もさることながら、様々な影響を受けた先生や同級生、上級生や下級生との出会いもありました。
中でも大きな出来事は、生徒会から学校に要望して服装の自由化を達成したことです。
当時は、大学ばかりでなく高校でも学園闘争という嵐が吹き荒れていて、バリケード封鎖などが行われていました。不満のエネルギーを爆発させて、破滅的な行動であり、解決という成果はほとんどないものでした。
私たちの場合は違っていました。話し合って、筋を通して実現させたのです。
最初、私のクラス3年3組の有志が「小宇宙会議」という団体を結成し、生徒の自治権の拡大を学校側に要望しました。学校側からの回答は、「任意団体である小宇宙会議は生徒を代表しているとは言えないので、回答できない」というものでした。
そのような場合、多くの高校では生徒たちは校舎を占拠したり、破壊活動に走ったりしていました。
私たちは、学校側の見解には一理ある、正規のルートで要望し直そうと考え、全クラスに説明を行い、生徒会代議員会を開催・決議し、生徒会の要望として再提出したのです。小宇宙会議の要望と全く同じものでした。
私服化を含む要望した4項目は1週間で了解の回答がありました。ゼミ形式の授業に切り替えるという要望に対しては、そう簡単なことではないので、今後検討して行きたいという回答でした。
この少年期に経験・獲得した「世の中の仕組みは変えられる」、「冷静に話し合いをすべきだ」という認識は、その後の私の人生観に大きく影響しています。仕事でも地域の活動でも、制度の変更の提案を勇気を持ってしてきました。

エピソード2 東大合格

少年期の最大の出来事である大学受験の話をさせていただきます。
私は1952年1月に生まれました。太平洋戦争の終戦から6年以上経っていましたが、まだ、高度経済成長が始まる前で、多くの国民が貧しい時代だったわけです。
団塊の世代よりは2学年ほど下でしたが、それでも全国で200万人の同級生がいる世代でした。そして、受験戦争という言葉がマスコミを賑わしだしたのも私たちの世代からだったと思います。
1971年、私は専門課程として経済学部へ進学する東京大学文科2類に、一年浪人して合格しました。前年は、東大受験史上、最も難しかった年で、現役では合格できなかったわけです。
それは、前々年に東大闘争のクライマックスの安田講堂占拠事件があり、その年の受験は中止になっていたからです。翌年、仕方なく他の大学に進学していた人たちが大挙して再受験し、最も合格が難しい年となったのです。
次の年も、その余波から難しい年で、合格できたのは運が良かったからだと思います。
そもそも、熊谷高校での成績が極めて良かった訳ではなく、学年での成績順位は500人中、良い時で15位、悪い時は100位という触れ幅で、平均すると50位くらいだったと思います。当時、東大には10人前後が合格していましたので、私の創造性を評価していた担任の恩師は、東大のような体制的・権威的な大学は奨めませんでした。高校内でも、校風から言って、京大の方が人気があり、私が評価する友人たちは京大受験組が多かったと思います。
現役の時には、生徒会や文芸部活動などの学園生活の比重が高く、受験のための勉強はあまりしていなかったこともあり、「どうせ落ちるなら、近い方がいい」ということで、東大を受験したというのが本当のところです。現役では合格できませんでしたが、そこそこの手ごたえがあったので、もう一度受けてみようと思ったのです。
その2回目の受験に際して、大きな力となった言葉があります。浪人の途中から通学した駿台予備校の鈴木長十先生がこう言ったのです。「君たちは、受験を深刻なことと思っているようだが、君たちが合格しようがしまいが、世界の情勢になんら影響はない。気楽に受験しなさい」という言葉でした。
その後、折に触れて「深刻になるな、真剣にやれ!」と自分にいい聞かせるようにしています。

エピソード3 学校歴社会

私が就職した1970年代(昭和50年前後)、学歴社会はさらに悪化して、学校歴社会というべき状態になっていました。
指定校制度と言われるもので、難関大学の出身者でなければ、入社試験を受けさせてもらえないというものでした。
私が入社した広告代理店の人事担当者に、「大学での成績は関係ありません。どの大学のどの学部・学科に合格できたかが重要です」と言われたことを、今でも覚えています。
(私自身、大学で真面目に勉強したとは言えず、東京大学経済学部を一応卒業しているということが、就職に極めて有利な要素だったわけですが、違和感も感じていました。)
難関大学の難易度の高い学部・学科に合格できたということは、その人が「記憶力が良い」ことと「受験勉強という単調な作業に耐えた」ことを証明しています。企業が必要とする人材の大部分は、この資質を持った人ということです。
勿論、記憶力が悪くても、忍耐力がなくても、素晴らしい発明をするタイプの人がいるかも知れません。しかし、そのような人はそれほど多くは必要ないのです。
「大学での成績は関係ない」という理由は、多くの日本の大学においては、専門課程であっても、企業から見れば一般教養のレベルであり、社内研修・社内教育でこそ人材育成ができると考えらえていたからです。
様々なライバルとの競争にさらされている企業が、このような「優秀な人材」を獲得したいと考えるのは不思議なことではありません。
このことが、学校歴社会が生み出されて行った原因と言えます。

エピソード4 学校教育に足りないこと

1995年(平成7年)から2年間、私は母校北本中学校のPTA会長を拝命しました。
実は、北本中学校には、3年生の2学期から転校生として通い、翌年の3月上旬には卒業しましたので、PTA時代の方が、多くの日数通ったのではないかと思います。
民間の企業に勤めていた私にとって、学校教育の現場は別の世界でした。勿論、児童・生徒として小学校・中学校に通ったわけですが、大人の視点での見え方は、当然と言えば当然ですが、違っていました。
一番強く感じたことは、「仕事人」としての「社会人」を育てるという目的意識が希薄だということでした。当時から十数年が経過していますので、改善されているかも知れませんが…。
社会には様々な職業があるわけですが、学校教育で学ぶことが、どの職業にどのように活かされるのかを示してから、教育というものが行われるべきだと思うのですが、そうはなっていなかったのです。
最近、小学生レベルでは、キッザニアという職業テーマパークが開設され、高い評価を得ていますが、中学生レベルではないようです。
さらに言えば、キッザニアのような、スポット的なイベント体験ではなく、日常的な学校教育の中で、職業と学習の関連付けが行われなければならないと思います。
例えば、ホテルや旅館での接客における英語使用の実際などを経験することは、英語学習の動機付けに大きな効果があると思うのですが…。
そもそも、学校に関しての国の最高法規である「学校教育法」には、小学校・中学校・高等学校の目的と目標が明記されています。そして、小学校の目標にはありませんが、中学校の目標には「社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと」と、職業に関する明確な記述があります。
このような法律があるにも拘わらず、実態として、ほとんど行われていないということでしょうか。息子の高校時代、担任教師との3者面談で、「進学指導はできますが、進路指導はできません」という正直な言葉を思い出します。
変えていきたいと思います。

エピソード5 マーケティングとシステム

私は、1977年に外資系の広告代理店、マッキャンエリクソン博報堂に入社しました。昨今の就職氷河期を経験している方々には申し訳ありませんが、きちんとした就職活動をしたわけではなく、偶然、その会社の筆頭副社長と知り合いになり、入社試験を受けたのです。
当時、糸井重里さんや林真理子さんなどのコピーライターが注目され始める前だったので、広告代理店業界はあまり知られていない業界でした。(私の入社からそう経たないうちに、トレンディな、人気の業界になっていきました。)
いつの時代も、就職時にどのような業界・職種を選ぶのかは容易なことではありません。私の場合も決めかねていて、様々な業界を垣間見られる広告業界は悪くないという思いでした。
マッキャンエリクソンは、アメリカのアトランタに本部があり、コカコーラの専属広告代理店として、世界最大規模のネットワークを持っていました。日本で、電通に次ぐナンバー2の博報堂と、51:49の資本比率の合弁会社として、日本で8番目、テレビ広告だけをとれば、4位か5位の広告代理店でした。
広告戦略やテレビCF制作ではアメリカの方が進んでいましたので、マッキャンスクールと呼ばれ、数年間ノウハウを学んで、中堅の広告代理店に移籍するという人も少なくありませんでした。
面白いことに、「代理」という意味が日本とアメリカでは違います。日本の広告代理店は新聞社や出版社、あるいはテレビ局の代理として、広告枠を販売するという意味で「代理店」だったわけです。一方、アメリカの場合は広告主の「代理」として、どの新聞、どの雑誌、どのテレビに、どのような広告を出すか企画提案するという意味で「代理店」だったわけです。
私は、3年間ネスレ日本担当の営業企画部門に所属し、ビジネスの仕組みがわかると、新しい情報システムを作りたいと考えました。今で言えば、映像データベースでしょうか、テレビCFをデジタルデータにして、社内のどの会議室にも送り出せるシステムの構築を提案したのです。
残念ながら、当時の技術ではそう簡単な、ことではありませんでした。
折しも1980年代に入って、FAXや普通紙コピー機、そしてビジネスパソコンが登場し、今では死語になりつつある「OA=オフィスオートメーション」の時代で、私はその導入・普及の担当者ということになりました。
当然システム部門ですから、OAだけでなく、メインのコンピュータシステムにも推進役として働きました。
こうして、私は、その後のインターネット時代を迎えるための準備ができていたわけです。

エピソード6 ビジネス雑誌創刊の背景

私は、外資系の広告代理店で、広告・販売促進・マーケティング、またシステム部門の仕事を経験する中で、より消費者サイドに立った情報提供の必要を感じました。広告は、どうしても一方的な情報提供だと思ったのです。
そこで、歴史はないけれど、流通業界では新しいことにチャレンジしているイメージがある西武セゾングループの企画会社を訪問し、自分を売り込みました。中途採用の募集をしていたわけではありませんでしたが、「流通業は消費者サイドに立った情報を提供すべきだ」という私に興味を覚えていただき、入社させてくれました。
さた、30代前半だった私は、西武セゾングループで、ビジネス雑誌の目次と記事要約を集合した雑誌を企画・創刊しました。自分で言うのはおかしいかも知れませんが、相当大変な障害を乗り越えての創刊でした。
どの業種かに関わらず、企画部門のスタッフは、マクロ経済から消費のトレンドまで、ビジネスに関わる情報を常に収集分析していなければなりません。日々の動向は新聞やテレビ、大系的な知識は書籍ということになります。そして、その中間的なメディアが雑誌になります。企画スタッフが最も重視するのがこの雑誌というメディアなのです。
新しい分野の企画を行う場合、まず、そのテーマの書籍を読み込みます。一つのまとまった知識大系を獲得するには、5,000ページ、書籍ですと20冊のボリュームが必要だといわれています。
次に、過去2・3年の雑誌記事を探し、読み込みます。より新しい情報を吸収するということになります。書籍は、大系的ですが古い情報、2年前後古い情報になることは仕方ありません。しかし、突然雑誌から情報収集しようとすると、雑誌記事は前提となる基本知識については省略されていることが多く、理解できないのです。
新聞・テレビは最新情報を提供するメディアですが、基礎的な知識については説明されないことがほとんどです。
よって、メディアの活用には、書籍、雑誌、新聞・テレビという順序があるということです。
1985年に「マンスリーインデックス」は、企画スタッフに必要と考えられる国内44誌、海外8誌の目次と要約を掲載し、定期購読の雑誌として創刊されました。最初の1年間、毎月「巻頭言」で私が情報論を書かせていただきました。

エピソード7 ヘッドハンティング?

私が西武セゾングループに在籍したのは、1983年から86年の3年間でした。ビジネス雑誌「マンスリーインデックス」が軌道に乗り出した翌1986年の春、知人に勧められて、人材バンクに登録しました。かなり専門キャリアのある人たちを対象とした人材バンクでしたので、多少気がひけましたが、自分が社会的にどの程度評価されるものか、興味がありました。
オファーがあったのは、企業イメージコンサルタントではトップの会社、PAOS(パオス)でした。実績としては、ダイエー・NTT・キリンビール・東京海上保険・住友銀行など、そうそうたるものがありました。
PAOSという社名は、「先進的な専門家のオープンシステム」を表す英語の頭文字から作られていました。実際、プロジェクト毎に社外の専門家とコラボレーションするのが当たり前でした。
私が在籍していた当時のセゾングループは、コピーライターの糸井重里さんを中心に、田舎百貨店イメージから、先進的な流通グループへとイメージの転換戦略を進めていました。
そもそも、西武は国土計画・西武鉄道・プリンスホテルなどの「西武鉄道グループ」と西武百貨店・西友・パルコなどの「西武流通グループ」に分かれていました。その「流通」の部分を「セゾン」(フランス語で「季節」の意味)に変えて、企業グループのイメージ戦略の最先端を走っていたわけです
私は直接イメージ戦略の担当ではありませんでしたが、マーケティングにも密接に関わっていましたので、イメージ戦略に相当詳しくなっていました。
企業イメージ戦略は、CIと呼ばれ、コーポレート、つまり企業の、アイデンティティ、つまりイメージの統一性を論理的・計画的に構築し、コントロールしようという考え方です。
元々は、見た目の社名変更やシンボルマークの変更なのですが、その後、企業理念やスローガンなどその根底にある部分を再構築する企業戦略に進化して行きました。
迷いもありましたが、これからの国際的ビジネスの時代、請われて転職するのが当たり前ではないかと考えて、転籍したのです。
人材バンクの方からは、「先方がどうしても欲しい」と言っていると聞かされ、それならばと転籍したわけですが、PAOSの人事担当役員に後から、「本人がどうしても入りたいというから、採用した」と聞かされ、「してやられた」と思いました。ヘッドハンティングではなかったわけです。

エピソード8 北本のイメージ戦略

北本市のキャッチフレーズは「範頼伝説のまち、感動桜国」ですが、企業イメージ戦略の仕事をしてきた私には、全く評価できないものです。
さて、北本のイメージ戦略が何故評価できないのでしょう?
まず、メインの「感動桜国」ですが、「感動」という言葉を自分で使うべきではないですよね。旅行会社が、北海道の観光キャンペーンとして、「感動大陸、デッカイドー、北海道」というキャッチフレーズを使った実績がありますが、北海道庁が使ったわけではありません。
次に「桜国」ですが、「王国」とのゴロ合わせだけで、「桜国」から想像される「他のまちと比較して圧倒的に多くの桜がある」というイメージと、実態はかけ離れています。
前段の「範頼伝説のまち」に関しては、マイナーな人物に北本を結び付けたら、マイナーなまちであることを表明しているだけではないでしょうか。
因みに、パソコンの文字入力で、兄の「源頼朝」と弟の「源義経」は漢字変換してすぐに出ますが、「源範頼」は「のりより」の漢字変換では出てこないのです。
百歩譲って、武将としてはマイナーであっても、書の名人であったり、笛の名手であったりという逸話があれば、情報価値があります。しかし、このような逸話もないようです。
少なくとも、市外の友人から、「北本って、どんなまち?」と尋ねられて、「範頼伝説のまち、感動桜国です」と、胸を張って答えられる人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
企業にしても市町村にしても、イメージに関する戦略とは、まず、どのような人々に対して、どのようにイメージしてもらうことが、どのような効果があるかを議論しなければ始まりません。
私が企業イメージコンサルタント会社で担当した川崎製鉄の事例は大変興味深いものです。
イメージ戦略の対象は、20代と40代・50代の女性でした。どのようにイメージしてもらいたいか、つまりイメージ目標は、「日本の基幹産業でありながら、オシャレでセンスのいい企業」というものでした。そのことによって期待される効果は、彼女たちの恋人や息子が川崎製鉄に入社することに賛成してくれることでした。
北本市のイメージ戦略も、このような論理的な進め方をすべきだったでしょう。そして、こうなってしまってからのイメージ戦略の軌道修正は、構築以上に高度な智恵が必要なことを付け加えておきます。

エピソード9 PTAに思うこと

私が北本市でPTA活動に関わるようになったのは平成5年(1993年)からでした。西小学校、広報部に所属して、創立20周年記念誌の編集を担当しました。
埼玉都民と言われる長距離通勤者の多いベッドタウン北本には、日中に会合や作業ができる男性が不足していました。当時の私は、企業勤務を辞めて、フリーのコンサルタント・プランナーとして、いくつかの企業と関わっていました。しかし、非常勤で、報告書・企画書や雑誌・書籍の執筆などは、自宅近くのアパートを借りて作業をしていましたから、時間の融通がききました。このため、PTAにとっては、絶好の獲物だったわけです。
平成6年に息子が北夲中学校に進学すると、私は中学校のPTA副会長就任の要請を受けました。
教育に関して、興味と問題意識を持っていましたので、かなり積極的に引き受けました。
今にして思えば、翌年会長を受けるまでの1年間、PTA行事も際限なく続き、流されるままで、そもそもどうあるべきかを考えてはいませんでした。
PTAという活動は、1897年アメリカのワシントンで始まったと言われています。太平洋戦争後、日本を支配したGHQは、学校にPTAを設立させることを指導しました。北本においては、中丸小学校が全国でも有数の早い時期に設立されたという記録があります。
結論から言うと、PTAの考え方には最初から無理があります。あえて訳すと「両親と教師の会」なのですが、両者の立場と利害が異なり、また、会員である保護者の数が教師に比べて圧倒的に多い組織です。多数決で決定すると、保護者側が有利すぎます。
ヨーロッパでは、両親・教師・学生のそれぞれの会があって、その上で、連絡調整会議として、PTSOという組織があるそうです。こちらの方が合理的ですね。
現実論として、教師の方々には申し訳ありませんが、実質的な保護者の会としてみれば、存在の意味はあるし、もっと高度な活動をしていただきたいと思います。
そのためには、教育に関する基本的な知識を、役員になった人たちに、きちんとオリエンテーションする必要があるのではないでしょうか?
どうも、どこの教育委員会にも、PTAに賢くなって欲しくないという態度が見受けられます。大変残念なことだと思います。

エピソード10 生涯学習社会へ

私が「生涯学習」という言葉に初めて出会ったのは、北本市教育委員会に「生涯学習課」があることを知った時でした。この「生涯学習課」は、PTA連合会の事務局を担っていました。
平成7年(1995年)、私は北本中学校第18代PTA会長を引き受けました。その年度中に、PTA連合会に新設された広報委員会の委員長にも就任し、連合会広報誌「ほろすこーぷ」を創刊しました。
この頃、PTA活動を副会長として1年間経験し、そもそも教育とは、PTAとは何かを考え始めていた時期でした。
市民活動の先輩からの影響もあり、教育における「生涯学習」という考えの重要さを知ることになりました。残念ながら、ほとんどの人がこのことを知らないのが現実です。
昭和58年(1983年)、当時の中曽根康弘総理大臣は、諮問機関として「臨時教育審議会」を設置しました。それまで、文部大臣の諮問機関である「中央教育審議会」が教育に関する中心的な役割を担ってきましたが、総理大臣が別格の諮問機関を設置したことは時代を画することでした。
この「臨時教育審議会」は、昭和62年(1987年)に、「情報化時代への対応」を主眼とした最終答申を提出して解散しましたが、この「情報化…」以上に注目すべき項目は、「生涯学習社会への移行」だったと思います。
「生涯学習社会への移行」では、「生涯学習社会」を「生涯のどの時期にも学習の機会を作り、学習した成果が正当に評価される社会」のように定義しています。前段に「学歴社会の弊害を是正するため」とあるように、高校新卒の大学受験での結果だけが、人の社会的地位を決定してしまう社会は変えるべきだという、高邁な考えに基づいた答申でした。
重要な点は、学習の内容が社会を維持・発展させていくために必要なこと、つまり職業上の知識・技術であるということです。そもそも、「生涯学習」の考え方は、技術進歩が加速して、カリキュラム変更に時間のかかる学校教育での知識・技術では、社会人としてやっていけなくなった20世紀後半になって生まれたものなのです。私が、埼玉SOHOを通じて活動しているIT(情報技術)の社会的普及は、この時代、「生涯学習」の中心的なものだと思います。
趣味の分野でも、学習行為は必要ですが、それは「生涯学習とは分けて考えるべきでしょう。QOL(人生の質・豊かさ)を高める趣味や社会奉仕は、福祉行政という別の分野であり、それ自体は重要なことだと思います。

エピソード11 小児結核と人格形成

昭和33年(1958年)、私は小学校に入学しました。
時代的は、長島茂雄選手がジャイアンツに入団して、首位打者と新人王を獲得した年で、12月には東京タワーが完成した年でもありました。
実は、父親の勤めていた会社が社宅と一体で、当時、東京の港区東麻布に住んでいました。通学した飯倉小学校は東京タワーが倒れてきたら潰れてしまうほど近くにありました。ですから、私は東京タワーが建設されていく経過をすべて見て育ったことになります。
入学してすぐに体調に異変が起きました。社宅から小学校まで、わずか300メートルだったのですが、帰宅すると、「疲れた」と玄関にへたり込んでしまうのです。小児結核でした。
当時は、何種類か、結核に効く抗生物資ができていて、確か、ヒドラジンとパスという抗生物質を定期的に切り替えて服用しました。
それまで、1月生まれにしては、成長が早かったのですが、小学校入学直前には、結核のため成長が止まりました。カルシウムが対外に排出されて、骨の形成に悪影響を与えていたのです。
一時は治まったのですが、4年生の時に再発し、5年生の途中まで体育は見学ということになりました。
人生塞翁が馬というのでしょうか、体育を見学して、冬場は教室でストーブの番をして、本に親しむようになりました。小学校後半3年間は、一日2冊のペースで、名作文学からSFや科学関係の本まで、幅広く読み続けました。特に理科や数学に関する本を好んで読んだと記憶しています。
この時期の読書による思考習慣の蓄積で、高校受験も大学受験も乗り切ったような気がします。
マイナスの影響は、級友たちから「体育はサボるくせに、遊びには参加するずるいやつ」と思われたことです。
生まれついての性格は、無邪気で明るい性格だったと思いますが、このことが影を落としていたようです。
人の心には善人だけが住んでいるのではなく、悪意の人格も潜んでいるということを知ったのです。だからと言って、世をすねて生きてきたわけではありません。両方内包しているのが人間なのだと悟って、それを受け入れることにしたのです。 少し、子供らしくない子供だったかも知れません。

エピソード12 理論物理学者か小説家か

小学校時代、本に親しんだことが影響してか、将来、理論物理学者か小説家になりたいと思うようになりました。小学生の夢としては変わっていたかも知れません。
科学の本は、自然界の仕組みや謎を解き明かしてくれましたし、小説は様々な人生を疑似体験させてくれました。
科学の本の中には、アインシュタインの「物体が光の速度に近づけば近づくほど、時間の進み方が遅くなる」という「相対性理論」が紹介されていて、子供向けSFにはこの理論を使った物語がたくさんありました。
当時、日本人で唯一ノーベル賞を受賞していたのは湯川秀樹博士で、パイ中間子の理論、つまり理論物理学での受賞でした。
このような時代背景もあり、「相対性理論」を越える「絶対性理論」なるものを完成させたいなどと夢を膨らませていました。
この理科好きは高校まで続いていて、3年生の夏までは大学も理科系の学部学科受験を考えていました。もっとも、生物学でDNAのことを学習してからは、バイオへと興味は移っていましたが…。
高校時代に社会性に目覚めたというのでしょうか、経済学こそが社会の原理を解明する学問分野だと考えるようになっていました。法学部を選ばなかった理由は、経済学が自然科学に近く、法学は人間が適当に決めたルールという認識があったからです。
理論物理学者への道は、高校時代で終焉を迎えたというわけです。
小説家になる夢は、まだ残っています。
小学生の頃の夢を胸に、中学校・高校と文芸部に所属し、仲間で文集を作りました。当時、尊敬していた日本の作家は、「他人の顔」や「第四間氷期」などで知られる阿部公房さんでした。
しかし、高校時代に限界を感じました。「事実は小説より奇なり」ではありませんが、技術や社会の仕組みが高度化するに連れ、社会人としての実体験のない人間が、リアリティのある小説など書けるはずがないと思うようになったからです。
その後、30歳代からは、ビジネス関係の雑誌に執筆したり、プロジェクト担当者として、「川崎製鉄のCI開発の全記録」とうドキュメンタリー書籍を執筆したりしましたので、文章を書くという点では通じることをするようになりました。
1990年代には、数冊のビジネス書を執筆し、その分野の専門家の方々には高い評価をいただくようになりました。
しかし、小説とは別のジャンルであり、小説を人々に読んでもらいたいという気持ちは、今でも強いものがあります。