第一章 事件の始まり

   1

 四ツ谷南署刑事課の係長北島敦が事件の連絡を受けたのは、午後十一時少し前であった。この時間の呼び出しであれば、どうということはない。寝入りばなを起こされるのが一番辛い。北島の場合は人一倍である。寝起きの悪さは、家族どころか、それほど深い付き合いではない友人にまで知れ渡っている。自分でも睡眠に対する執着が強いという自覚があった。  十一時半に現場に到着すると、刑事課長の岡田裕一と若手の山本和也はすでに到着して、鑑識の現場検証に立ち会っていた。監察医はまだ到着していなかったので、死亡時刻や死因については何とも言えない状態であった。 「頭が割られていますね」
 北島は、被害者に手を合わせて黙礼してから言った。
 被害者は仰向けに横たわり、その首は左に倒れていた。
「いや、これは凄い陥没だ。即死ですかね」
 額の上部から、頭頂部にかけて大きな打撲痕が確認できた。警察官としては小柄な方であったが、若い頃から、剣道大会では少しは知られた存在であった北島には、犯人の腕前のほどがよくわかった。
「ああ、おそらく、一撃で持っていかれたと思う。だが、心臓がすぐに止まったかどうかはわからない。脳死状態で、心臓は動いていた時間があったかも知れないからな」
 岡田はエレベータホール前の窓際で外の景色を眺めながら答えた。
「それで、凶器はこの木刀ということですか…」
 北島はしゃがみ込んで、落ちている木刀を観察した。それはかなり古びた木刀であった。
 木刀での撲殺はあるようでない殺害方法である。力学的に言えば、木刀全体の重量はバットなどに比較して軽いし、重心の位置も柄の部分に近いため、打撃を与える際にそれほどの力積が発生しない。木刀が凶器として使われる場合は、複数の加害者集団による袋叩きの際ぐらいである。つまり、一撃で殺害するつもりなら、バットや鉄パイプでないと難しいのである。
 被害者は窓の方に両足を向け、リノリウム張りの床の上に倒れている。凶器と思われる木刀は死体と平行して、右側に投げ出されている。
「まあ、検死してもらってからじゃないと確定じゃないが、俺の見たところでは傷跡と木刀の血痕の形状は一致しているようだな」
 四ツ谷南署の管内はビジネス街が多く、同じ新宿区内でも歌舞伎町を抱える新宿署に比較して、殺人事件というものはあまり発生しない。ましてや、このような計画的とも思える殺人事件は稀であった。
「それにしても、これは素人の仕事じゃないですよ」
 北島がそう言って窓の方を眺めたとき、岡田のシルエットが一瞬、女性に見えた。と同時に、首から背筋にかけて鳥肌が立つのを感じた。よく言われる霊感というものなのだろうか、北島は時折そのような感覚に襲われることがある。いや、襲われるというよりも、降りてくるという感覚なのである。
「そういうことだろうな」
 岡田は初めて北島の方に向き直って言った。
 北島は今の感覚に思いを巡らせ、しゃがみ込んだまま固まっていた。
「どうしたんだ。北さん」という岡田の声で北島は我に返った。
 そして、気を取り直して、現場検証に立ち会っている山本に声をかけた。
「山本、今まで分かっていることを教えてくれ」
 山本和也が刑事として四ツ谷南署に配属されてから、ようやく一年が過ぎようとしていた。身長は一八〇センチを優に超え、学生時代にラグビーをやっていたということで、がっしりとした体格をしている。その山本が手帳を見ながら事件概要の説明を始めた。
 第一発見者はそのビルの警備員で、三月十七日月曜日、午後十時の刻時巡回で死体を発見したという。死体の身元は、携帯していた自動車免許証から、住田忠明四十八歳と判明していた。また、警視庁の照会センターへ問い合わせたところ、住田忠明は福岡県出身で、これまでにいくつかの恐喝や傷害での前科があることもわかった。
 七階建てのそのビルはいわゆる雑居ビルであり、九時くらいまではそこそこ人の出入りがある。二階には三社がテナントとして事務所を借りているが、どこも今日は比較的早めに退社してしまい、午後七時には廊下の電気を消してしまっていたということである。
「すると、犯行は午後七時以降で、その時ここは暗かったということだよな」
「ええ、そうです。照明の点灯状態は警備室で把握できるようになっていまして、七時以降、再点灯されたということはないと思われます」
「暗い中で、ホシとマルガイは何をしていたというんだ?」
「さあ、わかりませんね。ただ、住田には前がありますから、また、恐喝に絡んで殺されたのかも知れません」
「ホシがマルガイをここに誘い込んだということか…。何故、ここなんだ?」
 北島は岡田のいる窓際まで行って、外を眺めた。
「俺もそう考えて、外を見ていたというわけさ」
「なるほど。それで、何かわかりましたか?」
「いや、わからん」
 岡田は小さく首を横に振って、そう言った。
 このビルのある若葉町二丁目は、表通りの新宿通りからそれほど距離があるわけではないが、神社やお寺の多い地域で、夜になると人通りが途絶える。
 そうこうするうちに、監察医が到着して、死体の検案を始めた。犯行時刻は午後八時プラスマイナス三十分ということのようである。おそらく即死、少なくとも運動機能は瞬時に奪われていて、意識が残存していたとしても、犯人に関する何のメッセージも残せなかっただろうと推測された。
 目に見える形では他の遺留物は発見されなかったが、肝心の凶器に指紋がしっかり付着しているであろうことは、鑑識が請合った。
「しかし、随分と矛盾したことが多いですね」
 山本の知識では、衝動的ではない、計画的殺人において、犯人が凶器を現場に残していくことは少ない。
「突然喧嘩になって、思わず、その場にあった何かで殴ってしまった。そして、パニックに陥って、凶器を放り出し、逃げ去ったというなら解りますが…」
「いや、犯人は恐ろしく冷静な奴だ。気が動転していたなどということはなかったと思う。それに、こんなものが、この辺りにもとからあったとも考えられないしな」
 北島は、木刀を見やりながら、小さく首を横に振って言った。
「プロファイリングでは、秩序型の犯人の場合、凶器を自分で準備し、犯行後は持ち去るものということでしたよね。ところが、この犯人は凶器の木刀を現場に残していった。矛盾してますよね」
 山本はさらに疑問を投げかけた。
「プロファイリング以前に、どんな殺人の場合でも、犯人は犯行後、凶器を持ち去るか、指紋を拭き取るかするもんだ」
 今度は、岡田が答えた。若い山本と違って、岡田の世代の刑事たちは、プロファイリング自体に懐疑的であることが普通である。
「手口からして、今回の犯人は、お前さんのいう秩序型だろうから、凶器を残していったのは、何か意図があってのことだろうな」
「何ですかね。それは」
「まだ、解らん」
 岡田は再び首を横に振り、腕を組んで考え込んだ。
 その時、柴田幸男刑事が、一人の男を連れて戻ってきた。色黒で俊敏そうな感じの柴田は三十二歳、働き盛りである。
「柴ちゃん、誰だい、その人は?」
 岡田が廊下のエレベータホールとは反対側へ移動しながら、柴田に訊ねた。
「このビルの角でヤキイモを売っている加藤さんです」
 そこには、六十がらみの男が立っていた。すでに、店じまいして、自宅近くの飲み屋でいい気持ちになっているところを連れて来られたのである。
 柴田が到着してすぐに聞き込みをした近くの寺の住職が、ヤキイモ屋が店を出していたこと、さらに、行きつけの飲み屋まで情報提供してくれたのである。
「そうかい、その坊さんに感謝しないとな…。いや、夜遅くすみませんね。それで加藤さんは何か見たんですか?」
 岡田がそう訊ねると、加藤は八時過ぎに見かけない女がこのビルから出てきて、彼の横を通って街中に消えたというのである。このビルに勤めている女性の顔は大体知っているが、彼女は見たことがない顔だというのである。
「かなりの美人でね。背もそこそこ高くて、スタイルも良くて、女のビジネススーツってやつ? そんなの着てたかな」
「コートのようなものは?」
「さあ、手に持っていたかも…」
 コートが必要だったり、邪魔になったり、このところの季候は微妙である。
「男は見なかったんですか?」
 北島が口を挟んだ。
「いや、九時近くに六階の山田商事の三人が帰っていったけど、八時前後には男は出てこなかったな。今日はさ、このビルはどこもやたら店じまいが早くてね。いつもより一時間繰り上がったって感じだったな」
 詳しい事情聴取は柴田に任せて、岡田は北島に話しかけた。
「北さん、どう思う。俺には女の犯行とはとても思えないんだが…」
「勿論ですよ。なにしろあれは相当な力がないと…。それと、マルガイには頭以外にどこにも打撲痕がないわけですから、確実な一撃だったわけですし…。しかも、薄暗がりの中、光を背にしてのやり口には、背筋が寒くなる思いですよ」
「そうだよな。昔で言えば、プロの刺客と言ったところだな。おお、怖…」
 岡田はそう言って、身震いした。
 理屈で考えれば、女とは思えないことはわかっていたが、先ほどの背筋を走った感覚のこともあり、北島はすでに女であることを半分確信していた。
 その日、四ツ谷南署刑事課の面々が現場検証を終え、現場監視のために二人の警官を残して署に引き上げたのは午前三時であった。

   2

 木刀から採取された指紋は柄の端に付いていたのが右手、その上に左手であった。明らかに左利きの場合の持ち方である。しかし、剣道の場合は例え左利きであっても、右手前の持ち方を指導される。左手前の持ち方は、基本的な指導に逆らい、個人的な鍛錬を繰り返して、身につけられたものと言える。それに加えて、鑑識からの報告には、掌紋と指紋から男であればかなり小柄、むしろ女と思われるという一文が添えられていた。
「北さん、ホシは女だとよ」
 鑑識からの報告書を北島のデスクの上に放り出すようにして、岡田は椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、あの目撃証言と合致するというわけですね。しかし、…」
 北島は、岡田が放り出した報告書を手にして、パラパラとページをめくり、内容を確認した。確かに、掌紋と指紋は小さい部類に入る。しかし、あれは剣道であれば達人の技である。しかも、光を背にするという実戦的なやり口からして、女とは思えない。
「課長、こうは考えられないでしょうか。犯人は犯行後、別人に凶器を握らせた。あるいは、別人の指紋のついた木刀で犯行に及んだ。もちろん、手袋かなんかをして…」
 山本が意見を述べた。
「まったくない話じゃないが、鑑識は相当強く握られた結果付着した掌紋と指紋だと言っている。あの打撃に耐えるには相当強く握っていなければならない。そんな付き方だったそうだ。それに、先に掌紋と指紋を付けてから犯行におよんだというのもだめだな。手袋をしていたとしても、かなり掌紋と指紋が消されているはずだが、実際は極めて明瞭に残っているようだ」
 刑事課の面々は首をひねるばかりであった。
「あの、ちょっといいですか?」
 山本が遠慮がちに訊ねた。
「あの左利きということなんですが、剣道の試合で左利きの選手を見たことがないんですが…」
 警察官として、男性は剣道か柔道が必修になっている。女性の場合は合気道が必修である。山本は柔道を選択していたので、剣道に関しては詳しくなかった。
「まれには左手前で構える奴がいないことはないんだが、ルール上不利な点があるので、左利きも右手前で構えることが多いんだ」
北島がそう答えた。
「ルール上不利なことって何ですか?」
「剣道の決まり手は知っていると思うが、小手の場合、右手前の構えでは、右手だけが対象になるのに対し、左手前の構えでは、両手とも対象になるんだ。どうして、そういうルールにしたのかは知らないが…」
「そうなんですか。自分は野球のバットやゴルフのクラブの持ち方のイメージがあったものですから、左利きは左手が前というか上というか、その方が自然な持ち方だと思っていたもんですから…」
「そういう意味では、剣道は左利きを排除する傾向があるのかも知れないな…」
「すいませんでした。つまらないことを聞きまして…」
「いや、いいんだ。ところで、凶器の木刀ですが、やはりホシが持ち込んだということでしょうか?」
 北島が岡田に訊ねた。
「まあ、あの目撃された女がホシだとすると、コートで隠し持っていたとも考えられる。肝心なのは、凶器の木刀の出所だな。鑑識で割り出せるといんだが…」
 目撃者によると、その女は表通りとは逆の方角へ歩いていったという。周辺の聞き込みでも、それらしき女が若葉町二丁目から三丁目を抜け、中央線・総武線のガード下をくぐり、みなみもと町公園までの足取りは確認できていた。しかし、そこから先の足取りがつかめないでいた。

 三月二十日木曜日、事件から三日目の昼に、柴田と相棒の宮本が聞き込みから戻ってきた。
「課長、容疑者が浮かびました。山野晃子三十一歳、住田の元義理の娘です」
「元義理の娘、なんだそりゃ?」
 岡田が聞き返した。
「山野晃子の母親朋子と住田は二十三年前に内縁関係にありました。三年足らずで別れていますから、元義理の親子関係ということになります…」
 山野朋子は、三十一年前、未婚で晃子を生み、小さなブティックをやりながら晃子を育てた。父親はわからないが、ブティックの開店資金はその男から出ていた節がある。朋子が晃子の父親と別れてから、そこそこの男出入りがあり、その一人が住田忠明で、二十三年前に朋子のところに転がり込んで来て、三年ばかり暮らしたということである。朋子にはその後も内縁関係にあった男が複数いたが、結婚はしていない。その朋子は二年前にすい臓ガンを患って、五十一歳で病死している。
「それで?」
「最近になって、住田が山野晃子に付きまとっていたという話なんですよ。複数の証言がありますから、まちがいないと思います」
「その山野晃子という女は大女か」
 北島が口を挟んだ。
「大女?」
 三十歳、昨年、警部補になったばかりの宮本豊が聞き返した。
「そうだ、体格はどうなんだ?」
「さあ、まだ本人を見ていないので、なんとも言えませんが…。話を聞いた連中からは特別そのような印象を受けませんでした。それで、体格がどう関係するんですか?」
 宮本が北島に訊ねた。
「いや、北さんが言いたいのは、あの凄い打撃を与えられるとしたら、女子プロレスラーのようなゴツイ女じゃないかということさ。そう言えば、宮本は現場を見ていなかったな。それじゃわからんのも無理ないな」
 岡田が代わりに答えた。
「なるほど、そういうことですか。分かりました。その確認のためにも、自分たちは山野晃子にあってきます」
そう言って、柴田と宮本が部屋を出ていこうとすると、北島が止めた。
「課長、そっちは私に行かせてください。柴田たちは、この前のヤキイモ屋の おやじを連れてきてくれ。課長、それでいいですね」
「面通しさせようっていうんだな」
「そうです」
「よし、わかった。北さんと山本は山野晃子。柴ちゃんたちはヤキイモ屋の親父。たのんだぜ」
岡田はそう言って、課員を送り出した。

   3

 若い頃は、母親に反発して家に寄り付かなかった山野晃子であったが、血は争えないもので、職業にしたのは、アパレル関係であった。母親が病に倒れてからは、長い間のわだかまりも消えて、晃子は母親の死に水をとった。現在は、渋谷のブティックの販売員をしながら、渋谷と新宿の中間にある初台の母親の店を人を雇って経営していた。
 北島が勤め先のブティックに連絡をとると、その日は、母親の方の店にいるはずだという。住所を頼りにその店を訪ねると、晃子は店員と商品の仕入れについて打ち合わせをしていた。
 山野晃子はすらっとした美人で、なんというカットか北島にはわからないが、何箇所かゴールドのメッシュを入れたショートヘアーをしていた。
「住田忠明さんが殺害されたことはご存知ですね」
 北島は単刀直入に訊ねた。
「ええ、ニュースで見ましたから…」
 警察が訪ねてくるであろうことを予想していたのか、山野晃子は冷静だった。
「店先では何ですから…」
 そう言って、晃子は北島と山本を店の奥の打合せスペースへと導いた。そこには小さな机といくつかのスツールがあった。
「こんなところで申し訳ありませんが、基本的に立派な応接室が必要な商売ではありませんので…」
 勧められた席に腰を下ろしながら、更に奥を見ると、帳簿などが並んでいる棚の隣に、仏壇のような黒塗りの大きな箱があることに北島たちは気付いた。ブティックには似つかわしくない代物であった。
 そのことに気付いた山野晃子が
「あれは、母のものでして、仏像が納められた厨子です」
 と説明し、北島たちは黙って頷き、本題を切り出した。
「ところで、どう思われました、ニュースを見て…」
「驚きました。悲しくはありませんでしたが」
 その答え方は、好意的な感情を持っていなかったことを自ら表明しているようであった。
「お聞きしますが、今週の月曜日、三月一七日ですが、その日の午後八時前後、どちらにいらっしゃいましたか?」
「月曜日のその時間でしたら、自宅におりました。自宅と言いましてもマンションの一室ですけど…」
「そのマンションはどちらでしょうか?」
「代々木上原です」
「ご自宅にいらしたことを証明してくれる方はいますか?」
「いえ、一人でしたし…。それに…」
「それに?」
「留守電にしていて、電話にも出ませんでしたから…」
「電話があったということですか?」
「ええ、八時頃、渋谷の店の仲間からありました。後で留守録音を聞いて知ったのですが…」
「あなたは何をしていたんですか?電話にも出ないで…」
「瞑想です」
「瞑想?」
 思わぬ答えに北島は驚いた。
「ええ、この一年ばかり、週三回ほど瞑想をしています。それで、大分よくなって…」
 そう言った時の山野晃子の目がわずかに泳いだのを北島は見のがさなかった。
「具合が悪かったんですか?」
「ええ、疲れとか、精神的にまいっていて…」
「そうですか。瞑想をねえ…。ところで、住田さんとのことについては、私どものところでお話を伺いたいと思うのですが、ご都合はどうですかね」
「ええ、六時までに帰していただけるのでしたら、構いません。今日も瞑想をする日と決めていますので…」
「今、午後二時ですから、大丈夫だと思います」
 山野晃子は、店を任せている女性に後のことを頼んで、北島たちと四ツ谷南署に移動した。
 移動中、北島は先ほどの山野晃子の目の動きはなんだったのかを考えていた。確か、「大分よくなって…」という言葉を口にした時に目が泳いだのである。「よくなっていない」ということなのか、少なくとも本人にその自信がないのかも知れない。

「ここが取調室なんですか?よく、テレビドラマに出てくる」
 取調室に通された山野晃子は、目を輝かせて、部屋中を見回していた。
「本来なら、こんなところでお話を伺うのは申し訳ないんですが、邪魔をされないで済みますので…」
「いえ、構いませんわ」
 北島たちとしては、面通しをする必要があって、取調室にしたのであるが、山野晃子は臆するどころか、はしゃいでいるようにも見える。
「失礼ついでに、山野さんの指紋と掌紋を採取させていただいても構わないでしょうか?」
「あら、本格的に犯人にされてしまったようですわね」
「そういうわけではないんですが、関係者の指紋は皆さんとらせていただいてますので…」
 採取された指紋と掌紋は照合のため、山本がすぐに鑑識へもっていった。
「それではおたずねします。住田忠明さんとはどのようなご関係なんですか?」
「住田さんとは、母の葬儀の時に初めて会いました」
「初めてですか? しかし、亡くなったお母さんとは三年ほど内縁関係だったと思いますが…」
「ずいぶん昔の話で、私は全く覚えていません」
「覚えていない? あなたは七歳か八歳にはなっていたはずですが…」
「でも、その頃の記憶がほとんどないんです。刑事さんも子供の頃なんか覚えていないんじゃないですか」
「まあ、そうですが、全く覚えてないということはありませんが…。まあ、それはいいことにして、二年前の葬儀の時に再会してからはどうだったんですか? 住田さんとあなたとの関係ですが…」
「関係と言ったって、住田さんが一方的に私に接近してきて…。それこそ、幼い子供じゃないんですから、父親に遊んで欲しいわけではありませんし、迷惑していました」
「不埒な行動におよんだということもあったと聞いていますが…」
「ええ、酒を飲みにいこうとしつこく誘ったり、手を握ろうとしたりしました」
「それで、あなたはどうしたんですか?」
「どうって、言われても…。まあ、そんなことがあってからは、二人だけにならないように気をつけていました。隙を見せなければ、大丈夫だと感じていましたから」
「それほど、執拗ではなかったということですか?」
「ええ、根は気が小さい人だったと思います」
 山野晃子の受け答えは終始落ち着いていて、北島には山野晃子が犯行に関与したとは思えなかった。

 その時、隣の部屋では目撃者の加藤と刑事課長の岡田がマジックミラー越しに取調室の山野晃子の様子を確認していた。
「どうですか。あなたが目撃した女というのは彼女ですかね?」
「ああ、確かにあの人だと思うんだけど…。なんか…」
「なんか?」
「なんか、雰囲気が違うんだな」
「どう違うのですか?」
「ほら、この前も言ったけど。ビジネススーツみたいの着てたし…。あんな華やかな感じの顔じゃなかったよ。それに頭の形が違うな」
「頭の形? ああ、ヘアースタイル」
「そうだよ。あんなに短くはなかったよ。黒かったし、肩にかかるというほどじゃなかったけど…」
「それは、かつらかも知れないな。それに、女は化粧の仕方で印象が変るからな…。それで、結論はどうなのです?」
 加藤が首をひねるばかりなので、岡田は思わずぞんざいな口調になっていた。
「いや、よくわかんないな…」
 このように、岡田が不審な女性を目撃したという加藤義男と要領を得ない話をしていると、指紋の照合に行った山本が戻ってきて、凶器の指紋と一致したことを告げた。岡田は、慌てて、隣の北島を廊下に呼び出した。
「おい、北さん。指紋と掌紋、両方とも一致したとよ」
「本当か?」
 目をむくように北島は山本に訊ねた。
「間違いありません」
 北島の剣幕に驚きながら、山本が答えた。
「俺もまさか一致するとは思わなかった」
 岡田も腕組みをして考え込んだ。
「ああ、そうだ。課長も気づいたと思うんですが、山野晃子は右利きですよ」
「そう言えばそうだな、北さん。どういうことなんだ…。まてよ。そうだ、山本。柴田たちと、山野晃子に関する聞き込みをやってきてくれ、特に利き腕に関してはしっかり裏を取ってこい。事情聴取は俺と北さんで続ける。それと…、あのヤキイモ屋のおっさんはもういいから、帰しちゃってくれ」
 岡田はバタバタと山本に指示を出すと、北島と取調室に入った。

「山野さん、凶器に付いていた指紋と掌紋があなたのものと一致しました」
 北島は、岡田課長と頷きあってから、山野晃子に告げた。
「えっ、どういうことです?」
 晃子は大きな目をさらに大きくして聞き返した。
「ですから、今採取したあなたの指紋と掌紋が凶器にも付いていたということです」
「どうして、私の指紋が付いていたんですか?」
「それは、私たちが聞きたいことです」
 暫く沈黙があった。そして、俄かに山野晃子の上体は上下左右に無秩序に激しく動き始めた。まるで、出来の悪いロボットのような動きであった。
「私にはわかりません」
 山野晃子は半分叫ぶように言うと、急に立ち上がった。そして、北島たちが抱きとめる間もなく、その場で昏倒した。
 山野晃子は完全に意識を失ってしまっていた。すぐに、四ツ谷南署のはす向かいにある病院に運ばれ、医師の診察を受けた。
 その見立てによると、意識はないが、呼吸・脈拍・血圧などは多少興奮したときの数値にある程度で、生命に別状はないということであった。
 刑事課の紅一点、桜井まゆみが、山野晃子の意識が戻るまで付き添うことになった。女性被疑者に対する配慮から、刑事課には必ず、女性警察官が配属されているのである。

「まいったね、北さん」
 岡田は眉間に皺を寄せて、腕組みをし、何回も首を回した。
「課長。ラジオ体操じゃないんですから、そんなに首を回さない方がいいですよ。血圧の高い時にやると、頭の血管が切れますよ」
「おい、脅かすなよ…」
 この数年、血圧降下剤を飲みつづけている岡田は慌てて首を回すのをやめた。
 岡田裕一は五十二歳、世間一般で言えば、深刻な成人病に悩まされる年ではない。しかし、ここ数年は控えているとは言え、以前の無茶な酒、タバコ、不規則な勤務が祟って、かなりガタがきていた。
 警察は財務省と並んで極端な身分社会である。上級公務員試験に合格して、警察庁に入庁した場合、早ければ五年目で小さな所轄署の署長になる。若くして、人の上に立つという帝王学を学ぶためと言われている。ノンキャリアの場合は長い階段を一段づつ上らなければならない。それでも、出世の速い者は、五十二歳で所轄署の署長になっているものもいる。遅れ遅れで警部にはなったが、その後十年以上警部のままで、万年課長と呼ぶものもいる。
 北島にしても、早ければ三十歳で警部になれるシステムの中では、三十八歳で警部補では出世がかなり遅い部類である。
「それにしても、このヤマは妙だよな。動機らしきものがあり、アリバイがなくて、目撃者がいて、ご丁寧に指紋付き凶器という物証がこれ見よがしに現場に置いてあって…。普通なら決まりなんだが…」
「殺害方法と、容疑者のイメージが全然合いませんからね。それに、これまでの刑事経験からして、殺っている人間が、取調べであんなお惚けができるとは思えませんよ」
「それで、最後の気絶はなんなんだ?」
「さあ…。どうも、普通じゃない気がしますね」
「普通じゃない?」
「ええ、精神的になにか…」
「精神病かなんかってことか?」
「いや、それはわかりませんが、ともかく、山野晃子の身辺をもっと洗ってみないといけませんね」
「そう言えば、若い連中から、そろそろ連絡があってもいい頃だが…」
 岡田が言い終わらないうちに電話が鳴った。柴田からの報告であった。
 柴田たちの捜査によると、山野晃子は完全な右利きであり、友人たちも左手を使って何かをしたという記憶はなかった。それから、ごく親しい友人の話では、この二年ほど付き合っている男と六月に結婚が決まっているということであった。その結婚相手の宮脇康夫は、晃子より一つ年上の三十二歳、コンピュータソフト会社のスタッフということであった。今週は九州に出張していて、明後日の土曜日に東京に戻ってくるということであった。捜査の進展はその婚約者からの事情聴取を待たねばならないだろうと北島は思っていた。

   4

 三月二十二日土曜日、宮脇康夫は東京に戻ると、自宅に寄らず、まっすぐ四ツ谷南署にやってきた。刑事課に顔を出した宮脇は、事情聴取の前に、晃子を見舞いたいと言った。山野晃子はあれから意識が戻らず、ベッドに横たわっていた。自発呼吸はしているので、酸素吸入もなく、ただ穏やかに眠っているとしか見えない。
「私には信じられません。こんなことになるなんて…」
 一通りの説明を受けて、刑事課のくたびれた応接セットのソファに腰掛けた宮脇が俯きながら言った。宮脇康夫が山野晃子と親しくなったのは、宮脇が渋谷のブティックにホームページ開設を提案したことがきっかけであった。販売のチーフをしていた山野晃子はホームページに載せる写真の撮影で度々宮脇と会うようになったのであった。
 宮脇は、かなりの長身で、痩せていて、メタリックブルーのフレームのメガネをかけていた。
「最近の山野晃子さんの様子を話していただけませんか?。特に、被害者の住田さんとのことを…。住田さんのことはご存知だったと思いますが?」
 岡田、北島、山本の三人が宮脇を囲むようにして、岡田が訊ねた。
「住田さんのことは聞いていました。付きまとわれていたのは確かなようです。お金もせびられていたようです」
「金ですか?」
 岡田は、頷きながら北島の顔を見た。
「ええ、一度に大金というわけではなかったようですが…」
「でも、母親の朋子さんと内縁関係にあったのは、二十年以上前のことだし、金を無心されるいわれはないんじゃないですかね?」
「それが、晃子は知らなかったというのですが、朋子さんと住田さんはその後、何回か撚りを戻していて、商売の面倒もみたことがあるというんです」
「住田があることないこと言ったということじゃないんですか?」
「そうだと思います。しかし、付きまとわれるよりはましということで、ブティックの商品運搬という名目で、月十万くらいは払っていたと思います」
「月に十万円ですか。あなたは何も言わなかったんですか?」
「もちろん、そんなやり方は反対でしたから、晃子にはかなりきつく言いました。でも、晃子は結婚したら、やめるからということで、結局、続いていたんです」
「ご結婚は、六月の予定でしたね」
「ええ、六月十八日に決まっています。ですから、殺人なんて彼女がするわけはないんです」
 宮脇は強く感情を込めて言った。
「実は、私たちも疑問を持っています。まあ、しつこく付きまとわれていて、金もせびられていたわけですし、指紋や目撃証言など、状況証拠は山野晃子さんの犯行を物語っているのですが、殺害方法と絡めて考えると納得できないことが多いんですよ。そこで、宮脇さんにお聞きしたいんですが…」
「知っていることはすべてお話しますから、どうぞ…」
「まず、晃子さんは右利きですよね。子供の頃、左利きから右利きに矯正したというようなことは聞いたことがありますか?」
「いえ、彼女が左利きだったということは聞いたことがありません。そんなしぐさも記憶にありません。どうして、そんなことを聞くんですか?」
「晃子さんの犯行にしてはおかしな点の一つがそこなんですよ。凶器、木刀なんですが、それに付いていた指紋などから左利きの持ち方ということになります。そして、その指紋は間違いなく晃子さんのものなんです」
「どういうことですか?」
「わかりません。そもそも、晃子さんは剣道の経験者などではないはずですよね?」
「ええ、聞いたことがありません。それも、どうしてですか? 剣道がどう関係があるんですか?」
「殴り方がですね、か弱い女性が木刀を適当に振り回したという類のものじゃないんですよ。剣道の有段者、しかもかなり高段者の犯行、そう考えないと、辻褄があわないんですよ」
「晃子が剣道の高段者であるはずがありません。もし、そうだとしたら、手のひらなどにマメとか、タコとかが出来ていると思いますが…」
「ええ、昨日倒れる前にお話を伺ったときも手を見せていただいてます。普通の手をしていました。もっとも、達人になると必ずしもタコとかマメとかあるわけではないそうですが…」
 岡田はそこまで話すと北島の方に顔を向けた。
「北さんの方で何かあるか?」
 促されて、北島が口を開いた。
「宮脇さん、山野晃子さんとのお付き合いはどのぐらいになるんですか?」
「彼女の母親がなくなった後からですから、二年くらいです」
「その間、晃子さんに何か変化がありましたか。実は、一昨日初台のお店の方で、ご本人から精神的にまいっていて、瞑想を始めたというお話を伺っているんですが…」
「彼女は、それだけしか言っていませんでしたか?」
「すると、何かあるんですか?」
「実は、一年ほど前から、精神科の先生にかかっていたんです、彼女…」
 少し、躊躇する態度を見せてから、宮脇は新しい事実を話した。
「ほう、精神科ですか」
 岡田と北島は目で頷きあった。
「それで、どのようなことで…」
 岡田が続けて訊ねた。
「昨年の夏ぐらいから、どうもぼんやりして、集中できないということがあったそうです。それで、友人から紹介されて、精神科を訪ねたようです。実は、詳しいことは話してくれないんです」
「婚約者のあなたにもですか?」
「ええ…。本人が言うには、渋谷の店と初台の店、両方の店の切り盛りで疲れているだけだから、ということでした」
「それで、その病院か医院の名前、わかりますか?」
「一度、診察券を見たことがありまして、確か、笠原クリニックだったと思います」
 事情聴取を終えると、宮脇は一旦自宅に戻ってから、その後は晃子に付き添ってやるつもりだと言って、四ツ谷南署を去っていった。

   5

 電話帳で調べてみると、笠原メンタルクリニックは西新宿にあることがわかった。しかし、電話は留守電になっていて、来週の火曜日までは休診であることを告げていた。後で判明したことであるが、笠原メンタルクリニックは個人病院で、医師は笠原令司一人であった。その笠原がこの十日ほど、アメリカの精神医学学会に参加のため、休診になっていたのである。
 山野晃子はその日の午後二時には意識を回復した。しかし、医師の付き添いの下で行われた事情聴取では、犯行時刻の前後、瞑想状態にあり、記憶がないというばかりであった。また、笠原メンタルクリニックでの診断と治療に関しては口を閉ざしていた。
「なんか変なヤマですね。精神科っていうのがどうもひっかかりますね」
 刑事課室には全員が集まっていたが、こう言い出したのは宮本である。
「精神科にかかっているからと言って、色眼鏡で見てはいけないと思います」
 桜井まゆみが宮本に反発した。
「まゆみちゃん、色眼鏡っていうのは古いね。まあ、ストレスが多い社会で、誰もが心の健康を害す可能性がある時代だ。精神科にかかっているからといって、特別視する必要はない。ただし、どのような疾患なのかによるがね」
 課長の岡田が言った。
「しかし、傷害事件や殺害事件を起こす人間が多いような気がしますがね。以前、九州で起こったバスジャックの少年にしたって、治療中にあんな犯罪を起こしたわけですし…」
 宮本は引き下がらなかった。
「今回のヤマは宮本さんが言っているような事件とは違うと思うんです。心が壊れちゃって、無関係な人を犠牲者にしてしまうような事件は、それとして、対処していかなければならないと思うんです。でも、心の病に冒された人は、本当に苦しんでいるわけですし…」
 桜井まゆみがこのように言う理由を北島は知っていた。ごく最近、まゆみの子供の頃からの友人がうつ病になり、自殺していた。以前は、どちらかと言えば明るい性格で、診断も軽症うつ病ということだったので、なおさらショックだったようである。軽症という言葉が落とし穴であった。いかにも自殺のような深刻な結果と結びつくとは思えないからである。
「俺が言いたいのは、健常者であれば、障害とか殺人とかの犯行時に心の中でブレーキが働くのに、精神疾患の場合、ブレーキが利かなくなるということだよ。それなのに、結果として殺人が行われてしまっても、心神喪失とか心神耗弱とかいうことで、当事者能力を問えないというのはおかしいよ」
 刑法第三十九条には、「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス、心神耗弱者ノ行為ハ其刑ヲ減刑ス」とある。つまり、正気での犯行でなければ、百%の罪は問えないということである。宮本には、この法律の精神というものが理解できなかった。
「そもそも、刑法上のこんな考え方は、何が元になっているんですかね」
 山本が疑問を呈した。
「何が元になっているか?」
 宮本が聞き返すと、山本は続けた。
「ええ、自分は法律には弱いんで、本当のところは解りませんが、ほら、日本の法律は、ドイツ法やイギリス法を下敷きにしているとか言うじゃないですか」
「それで?」
「いや、ヨーロッパの宗教とか関係しているのかなって」
「つまり、価値観か?」
「価値観、ですかね?」
 山本は首を捻った。
「まあ、その問題はここで論じてもしょうがないから、やめにしよう。それに、このヤマは、被害者と被疑者の関係が判明していて、動機らしきものも推察されるわけだし…。正常というと変だが、理解可能なパタンに属するんじゃないかな」
 まだ、何か言いたがる宮本たちを制して岡田が言った。
「それで、北さん。これからのことなんだが、どうするかね。北さんだけじゃなくて、みんなの意見も聞きたいが…」
「被疑者の自供はありませんが、これだけ状況証拠が揃っているんですから、逮捕状は取れると思うんです。しかし…」
「しかし?」
「しかしですね。笠原メンタルクリニックからの事情聴取の後からでもいいのかなって思うんですが、どうでしょうか?」
 北島がそういうと、岡田は頷いて、眼で柴田の発言を促した。
「私も逮捕状は急ぐ必要はないと思います。ただし、山野晃子に監視を付ける必要はあるんじゃないでしょうか?」
「そうだな。万が一、高飛びでもされた場合どうすんだ、と言う人が約一名いるからな」
 岡田はにゃっと笑いながら言った。
 四ツ谷南署の署長は、奇しくも岡田と同期であった。同期とはいえ、階級では二つ開いてしまって、署長としては、岡田は扱いにくい刑事課長であった。
「逮捕状に関しては、皆も同じ意見かな」
 岡田が見回すと、全員が頷いた。
「よし、逮捕状に関してはそういうことで、署長に進言しておく。まあ、ホシは早くあげるにこしたことはないと叱られるだろうが、後から精神鑑定とか、ややこしいことになることを話せば、署長も反対はしないだろう。次に捜査についてだが…」
 そこでの話し合いで、当面、桜井まゆみは山野晃子の監視、柴田と宮本は山野晃子の交友関係への聞き込み、北島と山本は被害者の住田の交友関係への聞き込みということになった。山野晃子本人が口を開かない以上、笠原令司の帰国を待って話を聞くしかなかった。

   6

 事件から一週間経った三月二十四日月曜日の明け方、北島は刑事課のソファで仮眠をしていた。
 北島は夢を見ていた。山野晃子が、あの若葉町のビル内で、住田を殺害する場面である。確かに、左手が前になっている。空間を切り裂くような速度で木刀が振り下ろされ、住田は倒れた。山野晃子は、木刀を放り出すと、口元に微かな笑みを浮かべた。それまで、能面のようだった山野晃子の表情が変わったのである。
『何なんだ、この笑顔は…』
 北島は、背筋が寒くなるのを感じた。
 その時、電話が鳴った。夢から覚めた北島は、例のごとく、不機嫌な気分で受話器をとった。中野東署の刑事課係長、今泉義則からであった。今泉と北島は同期で、その後ずっと剣道の稽古においては切磋琢磨した仲である。これまでの昇進もほぼ同じペースで、ここ数年くすぶっているところも同様であった。
『そっちのヤマのこと聞いたよ』
 今泉は、親しげに言った。
「どんな風に?」
 北島の言い方はまるで喧嘩を売っているようであった。
『お前、泊まりか?』
「ああ、当たり前だろ。ヤマを抱えてんだから」
『相変わらず、寝起きは機嫌が悪いやつだな。まあ、いいや。そっちのヤマ、凶器が木刀で、左利きで、女だというんだろ』
「おいおい、同じ第四方面だからといって、そんなに全部漏れちまっているというのはうまくないな」
 北島はますます不機嫌になった。
 警視庁は、方面本部という地域本部制を採っていて、千代田区・中央区・港区などの第一方面から第九方面までの九つに分かれていた。新宿区・中野区・杉並区は第四方面本部に属している。
『まあ、それはそれとしてだな。去年から、こっちの方で噂になっている女がいるんだ』
「噂になっている女?」
『ああ、剣道をやっている後輩たちの間でなんだが、謎の女剣士というのが中野近辺に出没するというんだ。その女は左利きで、勝手がちがうものだから、そこそこの腕前の男たちが打ち込まれてしまうということなんだ』
 眠気でぼんやりしていた北島の頭が回転を速めた。
「おい、その話、本当か?」
『だから、噂だと言っているだろう』
「ちょっと、待ってくれ。課長に話してみる」
 北島は、やはり電話の音で起されて寝ぼけ眼をしている岡田に今泉の話をした。岡田が電話を代わった。
「おお、今泉か。その話、ちょっと洗ってくれないか。そっちの上の方には、俺が後から断っておくから…」
 今泉は以前岡田の下にいたことがあり、旧知の仲である。
 大きなヤマを抱えていないこともあり、今泉はその日一日聞き込みをやってみるということであった。
「謎の女剣士か、なんか時代劇じみてきたな」
 岡田は腕組みをして、目を閉じた。

 その日の夜になって、今泉が四ツ谷南署にやってきた。
「で、どうなんだい?」
 挨拶もそこそこに、岡田は訊ねた。
「去年の夏前かららしいんですが、中野のある道場に、中野キョウコと名乗る女がやってきて、稽古をしたいというんだそうです」
「きょうこ? どんな字を書くんだ?」
「いや、カタカナでキョウコです」
「なんか、偽名っぽいな」
「そうです。秋には、登録用紙に記載された名前も住所もデタラメだということがわかったそうです。それからは現れていません」
 今泉が調べたところでは、その中野キョウコと名乗る女は、成人の中級者の部に参加して、乱捕り中心の稽古をしていたらしい。身長は一六〇センチくらい、スマートな体形で、いつもビジネススーツで現れたという。稽古の始まる直前に現れて、少し早めに引き上げていたので、素顔をしっかり見た者は少ないということであった。
「それで、腕前の方なんだが、どうなんだ?」
「それが、稽古だけで、試合とかはしなかったので、なんとも言えないんですが、私の学生時代の後輩で四段のやつが一度稽古をつけてやったことがあると言うんです」
「ほう、それで?」
「ちょっときつく打ち据えた後に、その女がカッとしたんでしょうか、竹刀を持ち替えて打ってきたそうです」
「持ち替えたっていうのは、左手前にだな?」
「そうです。それが鋭い打ち込みで、一本取られたというんです」
 竹刀を持ち換えての打ち込みは、その他にもあったようで、謎の女剣士という噂になったというのである。
「それで、その中級者の部というのは、曜日が決まっているのか?」
 今度は北島が訊ねた。
「ああ、それも調べてある。月曜日と木曜日の七時から九時だ。そのキョウコは木曜日が多かったらしい」
「木曜日か…」
「木曜日だと何かあるのか?」
「いや、その稽古の時間、被疑者が瞑想していると言っている時間なんだ。往復の時間を入れてもすっぽり納まるんだ」
「瞑想…、ほーう」
「……」
「その被疑者の写真を見せてみましょうか? その道場の連中に」
 今泉がそう提案した。
「そうだな。頼みついでだ。それもやってもらおうか。なあ、北さん」
「ええ。それじゃ今泉頼むよ…」
 北島はそう言って、頭を下げた。
「ところで、二人とも、昇進試験はどうすんだ。このままじゃ、柴田に先を越されてしまうぞ。いいのか?」
 岡田は二人を心配そうに見て、そう言った。
 警察機構における階級は大きな意味を持っている。四十過ぎてから、やっと警部になり、その後十年も警部のままでいる岡田にして、二人の昇進の遅れが気になるのである。
「今度はちゃんと受けますよ。なあ、今泉…」
「ええ、なんか人格を評価されるような気がして、いやなんですが、捜査の指揮権は警部からですからね」
 一般的に試験というと、知識偏重のペーパーテストがイメージされるが、警察における警部以上の昇進試験の場合、むしろ、リーダーシップに関する実技面が重視される。今泉が「人格を評価される」と言ったのにはそんな背景がある。
「そうか。それならいい…」
 岡田の持論が、捜査能力は試験では測れない、というものであることを北島は知っていた。それに、根っから捜査が好きな岡田は、警部以上に昇進して、現場から離れたくなかった。長い警部補時代に、人の何倍も場数を踏んだ後で、捜査の指揮を執れる所轄の刑事課長、まさに岡田の望み通りのポジションである。

 今泉は翌日電話で、捜査結果を知らせてきた。
『よく似ている、しかし、違うかも知れない』という証言だったという。つまり、確証が得られたということではなかった。しかし、被疑者が密かに剣道の鍛錬を行っていたという可能性が出てきたことも確かである。外堀は次々と埋められ、山野晃子への容疑は深まるばかりであった。

   7

 笠原メンタルクリニックは都庁からほど近い六階建の白い瀟洒なビルの二階にあった。三月二十六日水曜日、笠原の帰国の翌日であった。
「北さんは精神科に聞きこみにきたことはあるんですか?」
「結構多いな。特にこのところ…」
 山本が「北さん」と呼ぶのは十年早いと思いながら、北島は応えた。北島は寝起きでないかぎりは、概して寛容な性格であった。
 北島の子供の頃は、精神病院という言葉はおぞましいイメージを持っていた。そこに通院している患者やその家族は、そのことをひた隠しにしていたものである。しかし、最近は社会通念が変わって、暗いイメージは薄らぎつつある。それは、経済的な繁栄や様々なメディアの発展による情報量の増大という社会的な変化が新しいタイプのストレスを生み出し、人の心を疲弊させ、多くの人々が精神科にかかるようになったからである。
 病院名も、まさに、笠原メンタルクリニックがそうであるように、「何々精神病院」というような名称は使わなくなっている。さらに、笠原メンタルクリニックの場合、イメージアップのためのいくつかの工夫がなされている。たとえば、内装の壁の色はラベンダーの花の色を淡くした感じにしてあった。
「あれ、なんかいい香りがしますね」
 山本が半分目を瞑るようにして言った。山本らしくないしぐさだったので、北島は思わず鼻で笑ってしまった。
 ほのかに漂う香りはラベンダーの香りであった。内装のラベンダーカラーとの相乗効果で、五分もいると落ち着いた気持ちになるにちがいない。アロマテラピーというやつだなと思いながら、北島は愛人関係にある浅井瞳を思い出していた。何年か前、アロマテラピーを北島に教えてくれたのが浅井瞳である。もっとも、その当時は愛人関係ではなかったが…。
「いい香りですね」
 と山本が受付の若い女性に話しかけた。
 がさつな男としか思っていなかった山本の違う一面を、北島は見たような気がした。
 来意を告げると、すぐに奥に通された。
 笠原令司は細面で長身、縁なしのメガネをかけ、一見神経質そうにも見えるが、優しい目をしている。
 北島は、山野晃子の婚約者の宮脇康夫と似たタイプであることに気づいた。
 診察室に入ると最初に革張りのランベンダー色の寝椅子が目に付いた。山本が興味深げに見つめていたので、笠原が説明を始めた。
「あれは、音楽療法に使用するミュージックチェアです」
「ほう、音楽療法ですか」
 山本がさらに興味を示した。
「ええ、ミュージックセラピーというんですが、肉親を亡くしたり、離婚したり、失恋したりといった深い悲しみに沈む方の治療に用います。もちろん、本人が音楽が好きで、この治療を望んだ場合ですが…」
「このようなクリニックでは、どこもこのようなミュージックチェアが置いてあるんですか?」
「いえ、むしろまれだと思いますよ。特に、この色は特別注文ですから…」
「と言うと、普通は何色なんですか?」
「ブラックですね。でも、ブラックだと威圧感がありますから、私はこの色にしたわけです」
 北島は、廊下の香り同様、ここにも、笠原令司のこだわりを感じた。
「元気がでる、明るい曲を聴かせるわけですね」
 山本はさらに質問を続けた。
「いえ、違います。むしろ、短調の、心に沁みるような曲を聴いていただきます」
「えっ、それはどうしてですか?」
 山本は、驚いて訊いた。
 笠原の説明によると、人の心は、無理やり元気付けるようなやり方ではよくならないという。立ち直らせる場合には、言わば、悲しみを浄化させるという段階が必要になるという。
「そういうものなんですか」
 山本はかみ締めるように言った。
 面白い話ではあったが、今はそれどころではない。多少いらついていた北島は早速、ある殺人事件に関しての事情聴取であることを告げ、山野晃子について知っている事を話して欲しいと頼んだ。
「山野晃子さんがこちらに通院していたと思いますが…」
「ええ、山野晃子さんが私の患者であることは間違いありません。しかし、守秘義務というものがありますから、ほとんどお答えできないと思いますが…」
 笠原は臆することなく、そう言った。
「初めに申し上げましたように、私たちは殺人事件の捜査で伺っています。ご協力をお願いします」
 北島は内心腹を立てながら、表面上は丁重に頼んだ。
「それでは、私が事件の概要をお聞きして、事件に関係することかどうか判断させていただく訳にはいきませんか?」
 北島はそう言われて戸惑いを感じた。事情聴取で、このような厚かましい逆提案をされたのは初めてである。
「こちらも、捜査中のことで、マスコミにも発表していないことも多いので…」
「勿論、他言はしません。しかし、殺人事件ということだけで、何でもお話するというわけにはいきません。山野さんと殺害された方とがどういう関係か、また、どのような状況での殺害なのかをお聞きしてからお答えさせていただきたいと思います。なにしろ、患者のプライバシーに関わることですから…」
「わかりました。先週、住田忠明という人が殺されました。先生は日本にいらしゃらなかったので、ご存知ないと思いますが…。」
 北島は、覚悟を決めて、事件の概要を説明した。

「驚きました。私にも責任があることかも知れません」
 話の途中から表情を曇らせていた笠原は説明が終わるとこう言った。
「えっ!今なんて?」
 思わぬ発言に驚いて、北島は聞き返した。
「実は、山野晃子さんは幼児期に受けたショックがトラウマになっていまして…」
「トラウマというと、あれですか? えーと、心的な外傷とかいう…」
「そうです。トラウマはもともとは身体的な傷全般に使われていた言葉ですが、最近は主に心の傷という意味で使われています」
「どんなことがトラウマになっていたんですか?」
「殺された住田さんから性的ないたずらを頻繁に受けていたのです」
「すると、いたずらされていたのは彼女が八歳から十歳の頃ということですか? ひどい奴ですな、住田という奴も…」
 北島は九歳になる自分の娘を思い、嫌悪感を覚えた。
「それで、最近になってからまた手を出そうとしていた…」
「そういうことだと思います」
「それで、先生の責任というのは?」
 北島はいやな話を聞かされてしまったという不快感を覚えながら、気を取り直して訊ねた。
「うーん。説明が長くなるのですが、いいですか?」
「ええ、まあしょうがないですかね」
「その前にお聞きしますが、山野さんは犯行についてどう言っているのですか?」
「否認しています」
「単なる否認ですか? 違うのじゃないですか?」
「ええ、実は、犯行推定時刻前後、瞑想をしていて、記憶がないと言っています」
「やはりそうですか。記憶がないんですね」
 笠原は大きく二度頷いた。そして、姿勢を正して言った。
「私は山野晃子さんを、解離性同一性障害と診断しました。山野さんがいらして、三ヶ月ほど通っていただいてからです」
「カイリセイドウイツ…。なんですかそれは?」
 北島が聞き返した。初めて耳にする言葉であった。
「解離性同一性障害、こんな字を書きます」
 そう言って、笠原はメモ用紙に『解離性同一性障害』と書いた。
「以前、多重人格障害と呼ばれていたものです。この数年ほどは精神医療分野ではこの言葉を使用しています」
「多重人格、いや多重人格障害ですか。これは驚いたなぁ。日本でも実際にいるんですか?」
「おっしゃる通り、日本ではこれまで数えるほどしか診断例がないと思います。ただし、あくまでも診断された症例という意味ではです。それは、他の精神疾患であるという診断がされているケースが少なくないと考えられるからです。潜在しているものがかなり多数あると言われています」
「それで、山野晃子がその解離性同一性障害だとして、どういうことになるのですか?」
「覚えていないということは、彼女のホスト人格ではなく、交代人格の一人が殺人を犯したのではないかと、私は考えるわけです。おそらく、キョウコでしょう」
「キョウコですって!」
 笠原の口から、キョウコという言葉が語られた瞬間、北島と山本は同時に大きな声を出していた。
「どういうことですか?」
 二人の反応に驚いた笠原が訊ねた。
「実は、捜査線上にそのキョウコという女性が浮かびまして…」
 北島は笠原に対して、内心、捜査上の秘密事項を話過ぎる自分に違和感を覚えながら、勢いで、話してしまっていた。

   8

 笠原令司の口からキョウコという名前が出て、北島と山本は驚いた。そして、それが、山野晃子の交代人格の一人だと言うのである。
「キョウコの話をする前に多重人格障害、そして解離性同一性障害についての説明を少しさせてください…」
 笠原令司は多重人格障害から、解離性同一性障害へと用語が変化していった経緯をかいつまんで話した。
 一九八〇年代までは、精神医学の分野でも、多重人格障害という言葉が使われていた。英語ではマルティプル・パーソナリティ・ディスオーダーである。しかし、八〇年代の終わりになって、解離性同一性障害(ディソシエイティヴ・アイデンティティ・ディスオーダー)と呼ばれるようになった。これは、脳生理学の研究により、人格というものが記憶のまとまりとして形成されていることが分かってきたことによる。解離というのは、あるまとまった記憶が思い出せなくなることである。つまり、意識との関係が切り離されているという意味で解離なのである。
「私の責任だというのは、これは解離性同一性障害に対する私の治療方法がいけなかった、いや、原因とまで言えなくても、少なくとも影響があったと思われるからです」
「と言いますと?」北島がそう訊ねると、笠原は基本的な説明を始めた。
 別人格が生まれるのは、不快な記憶を思い出すまいとすることがきっかけになると言われている。山野晃子の場合、性的ないたずらをされたこと、それに付随して、抵抗できなかった弱い自分という記憶がある。しかし、ホスト人格はこれらの記憶を思い出したくないので、隅に追いやる。治療としては、このトラウマになっている記憶に直面させて、その当時に出来なかった抵抗をさせる、つまり拒絶をさせるという考え方である。これはいわば対決型の治療と言える。
「治療には、催眠術を使うのですか?」
「そうです。解離性同一性障害の患者は、容易に催眠にかかる傾向がありますからね」
「それで、その治療がどのような影響を与えたというのですか?」と北島は、本題に戻って訊いた。
「その治療はトラウマを希薄にするという意味では効果的だったわけですが、住田に対する山野さんの認識にも大きな変化をもたらしたと思われます。つまり、これまで恐怖や怯えの対象だったものが、憎悪と害意の対象になったということです」
「なるほど、それで山野晃子は住田を殺害してしまったということですか」
 北島は確認するように頷きながら言った。
「二十年以上も前のトラウマですから、その両当事者間には現在は関わりがないという、私自身の思い込みがありました。迂闊でした」
 笠原は、眉をしかめ、うつむいた。
「しかし、先生、それは責められないと思いますよ。すべての可能性を考慮して備えておくことなんかできないんですから…」
 北島は慰めるように言い、続けて訪ねた。
「それで、先ほど、キョウコという交代人格ですか? その犯行ではないかというお話でしたが…」
「これまでの診療の課程で、山野晃子さんの中には、五人以上の人格が共生していると思われます。その一人がキョウコというわけです」
「五人以上?」
 北島と山本は同時に大きな声を上げた。
「これまで、私が確認できたのが五人。まだ潜んでいるかもしれません…」
「そんなに沢山の人格が…」
「いえ、五人は多い方ではないのです。あの有名なビリー・ミリガンはホスト人格を入れて、二十四人でしたしね」
「ああ、『二十四人のビリー・ミリガン』という本がありましたね」
 北島と山本は顔を見合わせて頷いた。
 アメリカの一九九〇年代のある統計では、多重人格障害者の交代人格の平均値は十六人と言われている。肩などを脱臼すると癖になると言われるが、別人格の形成も、そんな傾向があるという
「すると、二重人格という言葉がありますが、実際には違うということですか」と山本が訊いた。
「ええ、そうです。それから、おそらく、お二人も誤解していらっしゃると思いますので、お話しておきますが…」と笠原は、多重人格に関する一般的な誤解について話した。
 ビリー・ミリガンがあまりに有名になり、多重人格者は男性が多く、そして、多重人格者は犯罪者になりがちと思われている。しかし、事実は違う。多重人格障害の九十パーセントは女性であり、健常者に比較して犯罪者である確率が高いということはない。むしろ、同情すべき人々と言える。自分の中に別の人格が潜んでいて、時には体が乗っ取られてしまう、そんな恐怖の中で何年も暮らしていくことは大変な恐怖である。
「女性が九十パーセント、恐怖の中で生きている…。なるほど、認識を改めなければいけませんな。それで、キョウコという交代人格ですが…」
 多重人格の背景に関することも面白い話ではあったが、北島は気を取り直して訊いた。
「なんて言ったらいいですか、まあ、冷徹な感じのする人格ですね。攻撃性もある」
「先生は、そのキョウコという人格が山野晃子を支配して犯行におよんだとお考えなんですね」
「そうです。キョウコが出ている時は、山野晃子はちょうど眠っているような状態で、何をしたのかという記憶がありません」
「すると、その解離性同一性障害というか、多重人格障害の場合、責任能力はどうなるのでしょうか? 私としてはそのことがわからないのですが…」
「さあ、どうでしょうか。無責任なようですが、私にもわかりません。医療的な面はともかく、それが法的にどう評価されるのかは専門外ですから…」
「そうですか…。こちらで判断しなければならないことですか…」
「申し訳ありません。ただ、ビリー・ミリガンが逮捕されたのは一九七七年で、数年後、彼は無罪になっています。しかし、それから二十年以上経ったアメリカでは、限定的に責任能力を問うようになってきたという話は聞いています。詳しくはお調べください」
 キョウコという交代人格について、岡田に早く報告したいと思い、北島は席を立ちかけて、思い出した。
「あっ、そうだ。ちょっと変なことをお聞きしますが、キョウコは左利きですか?」
「えっ、左利きかですか? さあ、何かをやらせたことがありませんから…」
「そうですか。それでは、別の質問をします。ホストの人格が右利きで、交代人格が左利きということはあるんでしょうか?」
「それは、報告例がたくさんありますね。視力や知能指数も変化すると言われています…。ああ、左利きの犯行だったというわけですか。なるほど…」
 多重人格障害には驚くべき現象が多いことを北島は思い知らされた。