十一面観音殺人事件
作:高橋伸治
第七章 結末なき結末
1
笠原令司が失踪して十日過ぎて、ようやく、笠原メンタルクリニックと笠原の自宅の家宅捜索令状が降りた。本庁のメンバーとの合同捜査になったが、四ツ谷南署からは北島、宮本、山本の三人が笠原クリニック、柴田と桜井が自宅を担当することになった。
笠原クリニックの家宅捜索には、鑑識に加えて、二人の専門家が同行した。一人は、精神科の医師である天野精一郎、もう一人は、警視庁科学捜査研究所に所属するパソコンの専門家、伊藤浩一である。
失踪する直前に、笠原が今回の事件に関わった証拠となるデータを、どのように処分したかは不明であった。少なくとも、ホームページを自ら作成している笠原は、パソコンを利用したデータ管理をしていたと考えられた。データへのアクセスにもIDとパスワードの割り出しが必要であったし、もし、データが消去されていた場合は、復元することも必要となる。そのため、伊藤浩一の同行が要請されたのである。
伊藤は、復元ソフトを使用して、この一ヶ月ほどで削除されたデータを復活させた。次に、持参したハードディスクにそのデータをコピーした。さらに、同じく持参した高速プリンタを接続し、天野と相談して、すぐに確かめたいデータをプリントアウトした。
伊藤が何をやっているのか、山本は辛うじて理解できたようであるが、他の者にとっては別世界の出来事を見るようなものであった。
鑑識班が室内の捜索をしている間に、天野と北島たちはクリニックの待合室で、山野晃子の診察・治療記録を確認した。
「なるほど、昨年の七月三日に、山野晃子さんは初めてここを訪れ、解離症状について訴えていますね」
天野は、記録を見ながらそう言った。
「解離症状ですか?」と北島が訊ねると、
「ええ、三十分から長いときは二時間ほど、自分が何をしていたのか思い出せないということのようです」と天野は答えた。
「婚約者の宮脇さんに聞いた話では、昨年の夏ぐらいから、どうもぼんやりして、集中できないということがあったということでしたが…」
「事実はもっと進んでいたようですね。もっとも、最初の訴え程度の解離症状は、離人症や解離性同一性障害ではなくてもあることで、病気とは断定できません」
天野は、北島にそう答えて、資料の先を読み進めた。
「キョウコという別人格が初めて確認されたは九月に入ってすぐですね」
暫らく、資料に眼を通してから、天野が顔を上げて言った。
「九月ですか。中野の剣道場にキョウコが出現したのが、六月初旬。山野晃子がここを訪れたのが七月初旬。解離性同一性障害と診断されたのが九月初旬ということになりますね」
北島が時間の流れを整理してそう言うと、
「いや、私たちはそう簡単に解離性同一性障害とは診断しません。他の障害であることもあり得ますから…」
と天野が異議を唱えた。
その時、パソコンの周辺機器などを調べていた伊藤浩一が、診察室から出てきて「ちょっと、こちらに来てくれますか」と診察室に北島たちを呼び戻した。
そして、「ここです」と棚の上のスピーカーを指差した。
「スピーカーがどうかしたんですか?」と山本が言うと、「いや、スピーカーじゃなくて、カメラだな」と宮本が見抜いた。
「その通りです。CCDカメラが仕込んであります。そして、パソコンに繋がっています」
伊藤の説明によると、パソコンには大容量のハードディスクが増設されていて、数十時間分の映像が蓄積できるという。
「パソコンには、映像編集ソフトが入っていて、DVDディスクに落していたようです」
「落す?」と宮本が訊き返すと、今度は山本が「DVDにコピーして、ハードディスクから消去することです」と説明した。
「それで、山野晃子の診察や治療の際の映像が残っているというわけですか?」
と北島が訊いて、「残っていれば凄い」と天野が興奮して言った。
「実はですね」と、伊藤は難しい顔をして、「こちらの棚にDVDディスクが収納されていまして、G・Sとか患者のイニシャルと年月日の組み合わせでタイトルが書かれているんですが、ごそっと抜き取ったところがあるんですよ」とその部分を示した。
「笠原が持ち去ったということですか」と山本ががっかりした表情を見せた。
すると、伊藤は「まだ、望みがあります。今は外されているそこのハードディスクにデータが残っている可能性があります」と部屋の隅に置いてある四角い箱を示した。
伊藤が言うには、現在接続されているハードディスクはまだ一年未満のもので、それ以前に接続されていたものの調子が悪くなって入れ替えたものと思われる。
「すぐにできますか?」という北島の問いに、
「科捜研に持ち帰らないと出来ないんで、中一日くれますか? それで何とかしてみせます」
と伊藤は請合った。
天野も資料を持ち帰って、調べたいと申し出た。秘密厳守ということもあるので、山本が同行するということになった。
四ツ谷南署に戻ると、笠原の自宅に向った柴田と桜井まゆみがすでに戻っていて、北島に報告した。
「残念ながら、これといった収穫はありませんでした。そちらはどうでしたか?」と柴田に訊かれて、科捜研の協力で、文書のデータは復活できたこと、映像データも復元の可能性が残っていることを話した。
「それはよかったですね。それでは、私は報告書の作成にかかりますので…」と柴田は自分の席に戻った。
柴田の隣で、北島の前に立っていた桜井まゆみが、何か言いたそうであった。
「どうしたんだい。難しい顔して…」と北島が訊くと
「ええ、でも…」とまだ決心が着かない様子である。
「この半年くらい、少し元気がないじゃないか。君が元気にすることが、友達の供養になるんじゃないか」
北島は、声を低めて言った。
「そうですね。実は、今日、笠原夫人に会って、気付いたことなんですが…」
「笠原純子の何に」
「ええ、純子さん、山野晃子に似ているんですよ」
「えっ」
北島は思わず大きな声を出した。
「私、山野晃子がここで失神して、入院した時、暫らく付き添っていました。彼女は目を閉じてベッドに横たわっていて…。私はその表情をずっと見ていたわけです。そして、今日、初めて笠原純子に会って、彼女が目を瞑った時、気付いたのです」
「ということは…」
「ええ、山野晃子の父親は、笠原純子の父親ではないかと思います」
桜井まゆみはきっぱりと言った。
2
科捜研が、笠原クリニックの古いハードディスクに残っていた映像データの復元に成功し、そのデータは山本が立会いの下、天野により分析された。
翌日、天野は捜査関係者に対して、笠原による山野晃子に対する治療の記録と映像データの分析結果を報告することになった。会場の科捜研の会議室には、担当となった警視庁刑事部捜査第一課第三班、同じく刑事部科捜研の心理係・法医係、四ツ谷南署刑事課のメンバー、そして、公判の際に担当する検察関係者が集まっていた。
先ず、天野がまとめた治療経過の概要に関する資料が配布され、天野が説明を始めた。
「最初に時間的な経過に関する事実だけをご説明します…」と天野は切り出した。
昨年の七月三日、山野晃子は友人の紹介で笠原メンタルクリニックを知り、初診に訪れている。その後、週に一度ほどのペースでクリニックを訪れて、カウンセリング的なコミュニケーションが行われ、徐々に晃子の心の状態が明らかになっていく。八月の半ばに、ある人格状態が診察段階で確認される。それは、幼児的な人格状態であった。九月の初旬に、キョウコという人格状態が出現し、強烈な個性を示して、笠原を驚かせている。その後、十月にかけて、三人ほど別の人格状態が確認されるが、しっかりと固有の名前を持つほどの独立した人格ではなかった。
「以上が、笠原医師が山野晃子を解離性同一性障害と診断するまでの経緯です。ここまでで何かご質問がありますか」
天野がそう言って会場を見渡すと、科捜研心理係の一人が手を上げた。
「解離性同一性障害としては、交代人格あるいは人格状態の数が少ないようですが…」
「その通りです。まだ、隠れているのかも知れませんが、極めて少ない例だと思います。この病名の診断を受ける患者の場合は、人格あるいは人格状態が二桁であることがほとんどですから…。他にありませんか」
一瞬沈黙があって、誰かが「ありません。先を続けてください」と発言した。
「それでは、続けます。笠原医師は、次に解離性同一性障害を引き起こした原因について調べています。結果的には、最初に現れた幼児的な人格状態がポイントでした。その人格状態は八歳の晃子の封印された記憶に基づいたものだったのです。住田と思われる成人男性による性的ないたずらの記憶です」
「あまりに教科書的ではありませんか?」
先ほど質問した男が、今度は発言の許可も得ずに言った。会議室には一瞬小さな動揺があったが、天野は落ち着いて応じた。
「私もそういう印象を持っています。しかし、治療記録ではそうなっています」
天野は、笠原が行っていた治療についても説明した。
「基本的には、いたずらを拒否できなかった自責の念から生まれたトラウマですから、暗示により、自信を回復させることだったわけです」
そこで、北島が手を上げ、質問をした。
「山野晃子は、瞑想することを習慣にしていましたが、それはこの治療とは関係ないのでしょうか?」
「私が笠原医師の治療記録を調べた限りでは、瞑想することをアドバイスしたということはありませんでした。むしろ、治療に訪れる前からの習慣だったのでないでしょうか…」
天野がそう言うと、会議室がどよめいた。殆どの者が、瞑想は笠原の指示だろうと思っていたようである。
天野は両手を揚げて会議室のざわめきを制して、
「そのことについては、この映像を見ていただきたいと思います…」
と言って、スクリーンに液晶プロジェクターからパソコン画面を映させた。そこには、山野晃子を右斜め上方から捕らえた映像が写っていた。
「これは、治療記録と照合すると、九月の中旬の映像です。この後半部分を見ていただきます」
そう言って、カウンターで三十分ほど、早送りさせた。
ちょうど、笠原の暗示によって、別人格のキョウコが引き出されるところであった。すぐに、キョウコは頭痛がすると言い、頭を抱えた。そして、バッグからエッセンシャルオイルを取り出し、その香りを嗅いだ。
『暫らくお話するなら、アロマポットを使ってもいいかしら…』と映像の中のキョウコは言い、笠原が承諾すると、電熱式のアロマポットをバッグから取り出し、そのまま笠原に渡した。
何分かすると、キョウコは晴れやかな表情になり、暫らく、笠原とキョウコの会話が続いたが、突然、
『この辺りで、カメラを止めてもらおうかしら…』とキョウコが言った。
その映像には、カメラの位置のため、笠原は映っていなかったが、椅子から立ち上がり、パソコンに向う気配がして、映像が消えた。その間、笠原は無言であり、映像が消える直前、キョウコは艶然とした笑顔を見せた。ちょうど、カメラ目線と呼ばれるもので、会議室でスクリーンを見つめている多くの者が自分が微笑みかけられたような感覚を覚えた。
北島は、いつか見た夢を思い出した。その夢は、あの若葉町での殺害現場と思われる場所で、住田を撲殺した直後に、キョウコが微笑むというものであった。
「この映像にあるように、晃子あるいはキョウコは、サンダルウッドを使用する習慣がすでにあったようです」と天野は説明した。
会議室内には、再びざわめきが広がった。各人様々な受け取り方をしたようであった。ある者は、別人格のリアリティに驚かされた。催眠状態で、ぼそぼそと話をするというイメージを持っていたからである。中には、サンダルウッドの香りが漂いだしてから、むしろ、笠原の様子がおかしくなったのでは、と指摘するものがいた。
「サンダルウッド、つまり白檀の香りは、人を瞑想に誘う香りですから、笠原医師が多少影響を受けたとしても不思議ではありません」と天野は答えた。
会場からは、解離性同一性障害における治療とはどのようなものかという質問が出て、天野はそれに答えた。
実は、治療法に定式化されたものがあるとは言えない。患者の状態も千差万別だからである。比較的にうまくいく場合は、交代人格の中に、理性的な調整役になれる人格が存在する場合である。医師は、その人格とまず信頼関係を結び、人格の統合に向けて、二人三脚で作業を進めることになる。
山野晃子の場合、そのような人格が存在しないか、表に出てきていない。幼年期のトラウマが解離性同一性障害への契機になったとして、他の人格および人格状態がどのような原因によって出現したかもわからない。まだ、五里霧中という状態だったようである。
「残念ながら、解離性同一性障害の場合、患者の様々な人格との対話を通じて、時間をかけていくしかないのが現状です…」と天野は説明を締めくくった。
結局、映像データが複写されたはずのDVDは紛失していて、ハードディスクに残っていた映像記録はその一本だけであった。
北島は質問しなかったが、キョウコがカメラの存在を知っていて、暫らく録画させながら、あそこで録画をやめさせたことが気になった。何故止めたのか、カメラが止まった後に、何があったのか、大きな疑問であった。
3
天野精一郎は、山野晃子の治療記録の分析結果についての報告を終えると、北島に相談を持ちかけた。
「山野晃子さんと話ができませんか?」というのである。
北島の一存では決められないことであった。現在、山野晃子は通常の拘留ではなく、警察病院に監視付きで収容されている状態であり、接見は本庁が了解しないと不可能である。
「接見して、どうするつもりですか?」と北島が訊ねると、
「サンダルウッドの香りで、キョウコを呼び出してみたいのです」と声を潜めて言った。
「それは…」
北島は天野の大胆さに驚いた。北島自身がその誘惑にかられるとこであったが、言い出せないでいた。
「普通の接見であれば、何とかなると思いますが、アロマテラピーを用いる場合はどうでしょうか。でも、正攻法で話してみましょうか」
北島は、本庁がどう判断するか見当がつかなかったが、まず、岡田に話をし、岡田と一緒に、本庁捜査一課第三班の班長、村松武司に話をした。
村松は暫らく考えて、上司の捜査一課長に連絡し、了解を取り付けた。
接見は、飯田橋にある警察病院で行われた。
山野晃子は、入院ということではあるが、ベッドに横たわっていなければならないという状態ではなかったので、接見は病院内の取調室で行われた。
北島が立ち会って、山野晃子、天野、北島の三人が取調室、岡田課長と村松班長とが隣りの部屋からその様子を見守ることになった。
天野は、染谷百合子から借りてきたという、電池式のアロマポットを取り出して、机の上に置いた。
山野晃子は、この間、自分の身に起こった出来事が受け入れられないで、半分眠っているような状態であった。話しかけても、曖昧な受け答えばかりである。
ところが、五分ほどして、室内に白檀の甘い香りが満ちてくると、晃子に変化が現れた。暫らく、目を閉じてから、顔を起こし、目を開けると、雰囲気が違っていた。
「私に何を訊きたいの?」と、晃子は天野、北島、そしてまた天野と視線を動かして言った。
「何とお呼びしたらいいですか。キョウコさんですか?」
と天野が訊ねた。
「そうね。その名前でもいいわ。でも、人と話をするのは久しぶり。うまく話せるかしら…」
と言って、あのビデオの時と同様の笑みを浮かべた。
「あなたは、いつから、晃子さんの中にいるのですか?」と天野が訊ねると、
「覚えていないくらい前からだと思うわ。こんな風に、表に出られるようになったのは、この二年くらいだけど…」
とキョウコは答えた。
天野は、キョウコに晃子の中にいる他の人格のことを知っているのかを訊ねた。キョウコは知っていた。
「でも、人格とは呼べないかも知れないわね。催眠状態の時にしか、表に出られないもの」
マジックミラー越しに隣でその様子を見ていた岡田と村松は、実際に初めて見る人格交代の状況に、驚きの表情で顔を見合わせた。
「岡田さんも初めてですか」と村松は訊ね、「ええ、そうです」と岡田は答えた。
真性の解離性同一性障害の場合でも、日常生活の中で、ドラマティックに人格交代が目撃されることはほとんどない。このように、専門家によるカウンセリングで、交代人格が呼び出されるいうことのようである。
取調室では、北島が天野に、事件についてキョウコに質問することの是非を確認していた。天野も、キョウコがどのような反応をするか予想もできなかったが、詰問調でなければよいのではという判断であった。
「あなたは、住田忠明さんが殺害された時、どうしていましたか」
北島は、少し婉曲的な質問の仕方をした。
「さあ、あれは私だったのかしら…。そんな気もするけど、違うような気もするわ…」
キョウコは首を捻りながらそう言った。
北島は、どういうことなのか、説明を求めるように天野を見た。天野は、黙って首を振った。
「すると、少なくとも犯行現場は見ているということですか?」
何て変な質問だろうと思いながら、北島は訊ねた。
キョウコは「そういうことになるのかしら…」と自信なさそうに答えた。
「何故、住田さんを殺害したのですか?」
北島は、ついに本題を切り出した。
「わからないわ。ただ、そうしなければいけないと思ったのよ。住田なんて男は私には関係ないもの」
キョウコは、もううんざりという表情をして言った。
北島が、さらに質問しようとすると、天野がそれを制した。これ以上、事件のことを訊ねると、何も話さなくなる可能性があると判断したのである。
天野は、話を換えて晃子が表面に出ている時はどうしているのかを訊ねた。答えは、「ほとんど寝ているようなもの」というものであった。
「疲れたわ。もともと、話をするのは好きじゃないのよ。もう、戻るわ」
キョウコはそう言って、目を閉じた。
山野晃子は病室に戻され、北島、岡田、村松の三人は病院内の応接室で天野から説明を受けた。
「正直に言って、何がどうなっているのか、わかりませんね」
村松が当惑を隠さずに言った。
白檀の香りという誘因を用いて、暗示により呼び出された人格というものは、正直に供述するものなのだろうか。一般的な取調べと同様に、虚偽の供述をすることもあるのであろうか。
「その点は、私にもわかりません。治療の場合には、概ね正直に話をしているものと思います。もっとも、それが事実なのか、本人がそう思い込んでいるだけのことなのかはわからないわけです」
キョウコが彼女にとって、事実を述べているとしたら、殺害は彼女が実行したものであるが、彼女が動機を持っていたのではないということになる。
「もしかしたら、山野さんの中には、笠原医師が見つけていない別の人格が潜んでいるのかも知れませんね…」
天野の言葉に岡田と村松は驚いたが、北島は、同じことを考えていたので、大きく頷いた。
「つまり、山野晃子のこころは三重構造をしているかも知れないということです。一番外側は山野晃子、その内側にキョウコたち、最深部に正体不明の誰か…」
晃子からはキョウコたちが見えないように、キョウコからその誰かは見えない。
「人のこころの中を捜査するなんてことが出来るんですかね…」
村松はそう言って、ため息をついた。
4
JBCテレビの佐藤健一が北島に語ったところによると、清水幾太郎と佐藤が笠原令司を発見した時の様子は次のようであったという。
秩父観音霊場の二十番目の札所は、法王山岩之上堂と言われるお堂で、聖観音が祀られている。その岩之上堂は秩父の中心街から、真北に三キロ、荒川源流の岸沿いの切り立った崖の上にある。笠原は、その近くの木彫工房で衰弱して失神しているところを、発見された。厳密に言うと、まず、清水幾太郎が発見し、佇んでいるところに佐藤健一が遅れて到着したということになる。
笠原の傍らには、彫り上がったばかりの十一面観音があった。薄暗い工房の中で、木々の間から差し込む夕日の中に不気味に浮かび上がる仏像と、痩せ細った男が横たわっている光景は凄まじいものであった。清水幾太郎が呆然と立ちすくんでいたのも無理のないことであった。
佐藤も震えながらであったが、頚動脈に指で触れて笠原の生死を確認した。最初、冷たく感じたので、ゾッとしたが、微かに脈を打っていることがわかって、ため息をもらしたという。
すぐに、消防と警察に連絡をし、ほどなく、救急車が到着し、笠原令司は病院に運ばれた。
北島たちが連絡を受けて、現地に到着するまでの間、一応、秩父警察による事情聴取が佐藤と清水に対して行われた。しかし、複雑な事件の経緯を説明すること、逆に説明されることに佐藤たちも警察もお互いに限界を感じて、途中でやめになった。東京から、北島たちが到着してから、ということになったのである。
結果的に、佐藤は清水幾太郎と、ここに至るまでの経緯について語り合うことになった。
清水幾太郎は、染谷百合子に語ったように、娘のあけみがその短い人生をどのように生きたのか、調べて歩いた。一ヶ月間の休職をしてのことであった。そして、ジグゾーパズルの断片を埋めるように、一つ一つ、事実を積み重ねていった。そうするうちに、娘が不倫という障害を越えてまで愛した笠原令司という男に実際にあってみたいと思うようになった。そして、新宿若葉町に十一面観音があることを知り、秩父の観音霊場の十一面観音との符合に気付き、秩父に逗留して、笠原令司の足取りを追ったのである。
佐藤はどうしたかというと、笠原令司が最近購入した書籍を調べるところから始めた。自分でホームページを作成できるほどの笠原であれば、書籍もインターネット経由で購入したに違いないと考えた。
インターネットで書籍を購入する方法として、インターネット書店に注文して、宅配便で配達してもらう方法と、書店に届けてもらい、そこに受け取りに行くという方法がある。実は、後者の方法の方が、宅配料金がかからない上に、時間的にも早いのである。笠原もそうしていたに違いないと考え、クリニックの近くの書店を調べてみた。そして、笠原が、木彫に関する書籍を購入していたことを突き止めたのである。
笠原が、二週間ほどかけて、十一面観音を彫ったその工房の持ち主は、現在は中心市街地近くに開設された公的な民芸館で指導をしていて、笠原の求めに応じて、岩之上堂近くの工房を使わせていたのだという。
二時間ほどして、北島、岡田、菊田の三人が笠原が収容された秩父総合病院に到着した。
「それで、笠原の容態はどうなんですか?」
岡田は到着すると、すぐに医者にそのことを確認した。
「どうも、この十日間ほど、食事を摂っていなかったようですね。いま、ブドウ糖と強心剤の点滴をしているところです。相当、衰弱していますが、命の方は大丈夫でしょう。意識がいつ戻るかはまだわかりませんが…」という医師の答えであった。
岡田は、半分安心したが、事情聴取ができないことを思うと喜べなかった。
「まあ、何にしても、重要参考人を確保できてよかった。失踪したまま、死なれでもすれば、うちの署長はただでは済まないからな…」
岡田は、同期の署長の失態も致命的でないところで止められたことに安堵していた。
「お二人の捜査力はなかなかなものですね」
北島は、憔悴している佐藤と清水に声をかけた。
「いえ、私の場合は偶然です。佐藤さんは笠原の購入した書籍から、論理的に辿り着いたようですが…」
佐藤は、先ほど清水に話したように、インターネットでの書籍購入ルートを調べて、秩父にある木彫工房を探り出したという説明をした。
「なるほど、どのような情報収集をしたかという視点から、その人物の行動を割り出すということなんですね。流石、ジャーナリストですね」
と北島は感心してみせた。
「いえ、それほどのことではありませんよ。清水さんの方が、全く素人なのに、タッチの差とは言え、私より先に工房に行き着いたわけですから…」と佐藤は言い、
「執念の違いですかね」と北島が続けた。
そこに、秩父警察の刑事課長が現れ、佐藤と清水、そして東京から来た三人の警察官を院長応接に案内した。病院から、使用許可を受けたとのことであった。
応接室のテーブルの上には、高さ六十センチほどの仏像が置かれていた。先ほど、清水と佐藤が工房で見た十一面観音であった。
「これが、笠原令司が断食を続けながら彫った十一面観音ですか…」
岡田は、食い入るようにその仏像を見つめた。
「あの工房の持ち主は、もともとは金剛流とかいう流派の面打師でして、能面などの面を彫るプロだそうです。仏師ではないということですが、同じ木彫ということで、市内の民芸館では、木彫の実演をしているそうです。笠原令司は、二週間ほど前にそこを訪れ、長い時間見学をした後、どこか邪魔をされずに仏像を彫れるところはないか、と言ったそうです…」
秩父署の刑事課長は、市内で事情聴取してきた結果をこのように話した。岡田は、そこまでやってくれたことを感謝した。
「しかし、素晴らしい出来栄えですね」と菊田が感心すると、
「ええ、そのプロも、あの工房でこの仏像を見て、感嘆の声をあげていました」と秩父署の刑事課長も説明を加えた。
「しかし、命をかけてまで、十一面観音を彫る意味は何なのでしょうか?」
清水幾太郎は、仏像を見つめながら、訊ねた。
これまでの経緯がわからない秩父署の刑事課長は戸惑いながら、他のメンバーの表情を次々に確かめた。
「さあ、どうでしょうか…」と岡田が代表するように言った。
その後、岡田は、刑事課長と秩父署に赴き、挨拶をして今後の協力体制などについて打ち合わせることにした。病院には、菊田が留まり、北島は佐藤と清水から事情聴取を行いながら、東京に戻ることになった。
外は、すっかり、夕闇迫る頃になっていた。三人は秩父駅から秩父鉄道に乗車して、熊谷に向った。
「個人的にはお疲れ様、と言いたいところですが、警察官としては、どんな危険があったかわかりませんから、やめていただきたかったですね。まあ、お二人とも覚悟の上だったとは思いますが…」
北島は二人に対してそう言った。
「ご心配をおかけいたしました」と清水は深々と頭を下げ、佐藤はそれに便乗して、ちょっとだけ会釈した。
「正直、あの工房で、死体のように横たわる笠原さんを見つけた時は、顎が震えました。私とはかけ離れた世界に足を踏み入れてしまったと思いました。佐藤さんがすぐに現れて、救われました」
「いえ、私も一人だったら、足がすくんだと思いますよ。あの工房には、異様な雰囲気がありましたから」
二人は、改めて工房でのことを語り合った。
「可能性としては、狂気にとり憑かれた笠原が、小刀などで襲い掛かるということもあり得たと思いますからね」と北島が危険性を語った。
「そういうことも考えられましたね」
佐藤も素直に認めた。
その後、三人は主に、清水のこれまでの行動について話をした。
「これで、私の知らなかったあけみのことが、かなりわかったと思います。不倫とは言え、あけみが笠原さんのことを真剣に愛していたこともわかりましたから、私としては、満足です」
清水は繰り返し頷きながら言った。
「そうですね。でも、清水さんが家を出て、奥さんは心細かったと思いますよ」と北島が言うと、
「ええ、先ほど、帰ると連絡しましたら、電話の向こうで泣いていました」
清水幾太郎もうっすらと涙を浮かべていた。
5
笠原の意識は三日経っても戻らなかった。秩父へは、本庁から二人の刑事が派遣され、岡田は四ツ谷南署に帰ってきた。北島から、笠原クリニックと自宅との家宅捜索の結果について報告を受け、桜井まゆみの言葉に驚いた。
「初台の藤原扶美子の、晃子の父親は医者かも知れない、という証言と合わせて考えれば、ないことはないかもな。それで、北さん、どんな指示を出したんだ」
と岡田は訊いた。
「言い出した本人と宮本に裏を取るように言いましたが、二人の父親が同じだとして、それがどういう意味を持つのか…」
北島は腕を組んで、首を傾げた。
「それもそうだな」と岡田は頷いた。
「それよりも、朋子の死に際について、調べて見たいのですが…」と北島が言うと、
「それはいいが、まさか、まだ生きていると思っているんじゃないだろうな」と岡田が珍しく、北島に厳しい口調で言った。
「そうではないんですが、その後の晃子に何か影響を与えているのではないかと…」
「何か影響? どんな影響だい?」
「まだ、よくわかりませんが、交代人格のキョウコは剣道をやり、左利きだというところは、朋子そのものですからね」
「確かにそうだな…。わかった。それじゃ、まず病院での聞き込みということだな。やってくれ。ただし、一人でいいよな」
岡田は最後には納得して、そう言った。
朋子が最後の時を過ごした西東京総合病院は、武蔵野市にあった。ベッド数が千を超える大病院ということになる。二年数ヶ月前に山野朋子はそこに入院した。
それほど、年月も経っていないので、その頃担当した医師も看護師たちもほとんど在籍していた。
「最初、外来だったのですが、診断後二ヶ月経って入院しました。残念ながら手遅れでした。本人の希望でしたので、すい臓癌で、余命半年です、と告知しました」
担当医はそう言った。
「即入院ということではなかったのですか?」と北島が訪ねると
「確か、何かやっておくことがあるとかで…」と医師は答えた。
「そうですか。入院してからは、娘さんが付き添っていたと思いますが…」
「ええ、最後の二ヶ月ほどは、そばから離れることがなかったようです。詳しいことは、担当の師長の方がいいと思います。今、呼びますから」
そう言って、担当医は看護師長に連絡をとった。
看護師長は、中澤由美子という四十代半ばの女性であった。呼び方が変わったからというわけではないであろうが、以前言われていた「看護婦長」タイプの印象ではなかった。むしろ、幼稚園の保母さんという感じであった。
「山野朋子さんは大変我慢強い方でした」
中澤師長は、彼女が担当している病棟の談話室へと北島を案内しながら、話し始めた。
「末期患者へのケアは、ペインコントロールと言いまして、痛み止めの薬の処方がポイントになるのですが…」
モルヒネなどの強力な鎮痛剤は、痛みを感じさせなくすると同時に、量が増えてくると思考力を奪ってしまう。意識のない状態で、ただ、時を過ごすことになる。言わば、緩慢な安楽死である。
「彼女は、痛みがあってもいいから、意識を保っていたいと言って、最小限のペインコントロールを希望しました。大変な痛みだったと思いますよ」
北島と中澤師長は、談話室の一番奥にあるテーブルの席についた。
「娘さんとはどのような話をしていたでしょうか?」と北島は訊ねると、
「私たちはいつも付き添っていたわけではありませんから、詳しいことはわかりませんが…」
と前置きして、当時の様子を話し始めた。
山野母娘には、金銭的な余裕もあったのか、個室に入った。晃子は最後の二ヶ月は、仕事を休んでそばに付き添った。
「実は、朋子さんはアロマテラピーのポットを使っていました。基本的には、病室内では許されないことなのですが、個室ですし、アロマテラピーの場合はお香などと違って、仄かな香りですから、大目に見ていました」
「どのような香りでしたか?」と北島が訊ねると、
「私は詳しくないのですが、スタッフに詳しい者がいまして、サンダ、何とかと言っていました」
「サンダルウッドですか?」
「ええ、そうだと思います」
北島が予想したように、白檀の香りであった。
「サンダルウッドの香りは、緊張や不安を静め、気分を落ち着かせる効果があるといわれています。瞑想などに利用されると言われています。陶然として、痛み止めの効果があったのではないでしょうか?」
と北島が、白檀の効果について説明すると、中澤は首を傾げた。
「いえ、むしろ、陶然としていたのは、娘さんの方でした…」
「えっ、どういうことですか?」
中澤の記憶では、身の回りの世話などをやいている時は、晃子はきびきびと動き回っていたが、二人で白檀を香らせて、話をしている時は、話しているのは朋子で、晃子は黙って聞いているだけだったというのである。
「朋子さんは、どんな話をしていたのですか?」
「さあ、私たちが病室に入ると話すのをやめていましたから、詳しくはわからないのですが…」
そこまで言って、中澤は躊躇している様子を見せた。
「少しは、ご存知なのでしょ」と北島が水を向けた。
「実は…」
当時、看護チームでも朋子が何を話しているのか、興味の的になったという。悪いこととは知りながら、立ち聞きする者もいた。
「わかってみると、どうってことはなかったんです。朋子さんの想い出話を詳しく話していただけでしたから…」
「想い出を詳しくですか…」
「ええ。ただ…」
「ただ?」
中澤は、先ほど以上に話そうか話すまいか躊躇していた。
「何か特別なことでも…」と北島が訊ねると、ようやく決心して話し始めた。
想い出の内容として、母親が娘に対して話すには、露骨過ぎる話があったというのである。男性との肉体関係に関して、かなり具体的なことを話していたというのである。
「そんな時でも、娘さんは黙って聞いているだけで、スタッフの若い子は、まるでMDレコーダに吹き込んでいるみたい、と言っていました」
「MDレコーダですか」
「ええ、私たちの世代ですとテープレコーダなんですが、最近はMDらしいですね。それから、朋子さんが亡くなられて、葬儀が済んで、娘さんが私たちのところまで挨拶にいらしたのですが…」
その時、スタッフの一人が「でも、お母さんの想い出をたくさん聞くことができてよかったですね」と思わず言ってしまったという。中澤は、立ち聞きのことがあり「いけない」と肝を冷やしたが、晃子は怪訝な表情をして、それでも、「ありがとうございました」と頭を下げたという。
「あれはどういうことだったのでしょう?」
と中澤は首を傾げた。
6
「滋賀県高月町か、どこかで聞いたことがあるな…」
宮本と桜井の二人は、山野晃子の母朋子と笠原純子の父親との関係を調べた結果を岡田と北島に報告していた。
二人の捜査によると、純子の父、鷹森澄夫は旧姓村井と言い、山野朋子と同郷の滋賀県伊香郡高月町出身であることがわかったというのである。
「同郷、高月町ね」
再び、岡田は腕を組みながら、呟いた。
地図で見ると、高月町は長浜市から北へ十キロ、琵琶湖の東湖岸のほぼ北の端に位置し、人口はちょうど一万人ほどの小さな町である。東に己高山系、西に賤ヶ岳の山並が連なり、その間には肥沃な平野が広がっている。
「国宝の十一面観音があります」と、高月町の説明の最後に、宮本が付け加えた。
「そう、それだ。確か渡岸寺とかいうお寺だったな。あの『十一面観音巡礼』の最初に出ていた…。それを早く言えよ」
岡田はそう言って、宮本を睨んだ。
国宝に指定されている高月町渡岸寺の十一面観音は千百年ほど前の作と考えられ、美しい仏像として有名であり、事実、白州正子や井上靖など多くの文学者がその著作の中で、美しさを称えている。
「二人は、その十一面観音を見て、育ったわけですね」と北島が言い。他の三人は、黙って頷いた。
これで、山野朋子が十一面観音と深い関わりがあり、初台のブティックに、村井が送ったと思われる十一面観音が置かれていた理由が明らかになった。
村井澄夫は、地元の高校を卒業して、東京の聖林大学医学部に学び、聖林大学病院の内科医となった。当時、そこの院長であった鷹森達太に見込まれ、娘と結婚して、鷹森家の籍に入った。純子は一人娘として、三十年前に生まれている。
「山野晃子と一つ違いか…」と岡田は呟いた。
おそらく、村井澄夫は山野朋子を妊娠させるほど深い関係にありながら、鷹森家に婿養子で入ることを選択したに違いない。あの十一面観音には、村井のどんな思いが込められていたのであろうか。故郷の想い出のよすがとしてであろうか、自らの不実を表してのことであろうか。
「一人で、晃子さんを生んだのですね」と桜井まゆみがしみじみと言った。女性の視点からだと、鷹森澄夫のことよりも、朋子の思いの方が気になるのは当然であった。
「さて、これで、村井、いや鷹森澄夫が山野晃子と笠原純子の二人の父親である可能性が高くなったわけだが、そのことが今回の事件にどう関係しているかだ」
岡田は三人の顔を見渡した。
「笠原令司の義父、鷹森澄夫が山野朋子と関係があったということを知るチャンスが、住田にはあったかも知れません…」
宮本の考えでは、二十年以上前に住田が朋子と暮らしていた時期に、鷹森澄夫の名前を耳にしていた可能性があるというのである。山野晃子が通う、笠原メンタルクリニックを探っているうちに、笠原の不倫ばかりでなく、その義父の鷹森澄夫のスキャンダルにも気付いたに違いない。
「それほどのスキャンダルなのでしょうか?」と桜井まゆみは首を捻った。
「その辺はまだ捜査が足りないのでわかりませんが、鷹森家の社会的体面ということがあるのかも知れませんし…」
宮本は自信なさそうにそう言った。
「ともかく、住田殺害は晃子の身体を乗っ取ったキョウコが行ったことは事実だ。そして、そう仕向けたのが、笠原令司だとして、自分自身のスキャンダルをネタに恐喝されていたことが動機なのか、義父のスキャンダルのこともあったのか…」
岡田は、笠原が義父の鷹森澄夫のスキャンダルに関して、殺害するまでの動機を持つとは思えないと言った。
「ちょっと、いいですか。鷹森澄夫を守りたいと思っている人間がいるとして、最も強くそう思っているのは、山野朋子ではないでしょうか。そして、信じられないことに、山野朋子は生きているのです。晃子の中に…」
北島が表情を引き締めてそう言った。
三人は、驚きの声をあげた。
「課長には、西東京総合病院での山野朋子の最後の様子をご報告しましたが…」
北島は、「この考えが頭に浮かんだ時、自分でも寒気がした」と前置きして、話し始めた。
山野朋子は亡くなる直前の二ヶ月間、白檀を香らせながら、晃子に自分の想い出を詳しく語ったという。どんな出来事があり、その時、どのように感じて、何をしたか。立ち聞きした看護師によると、娘に話す内容としてはふさわしくないこともあったという。娘の晃子はトランス状態であり、一方的なインプットが行われたという印象であった。
結果として、朋子の一生の記憶はダイジェストではあるが、晃子の中にコピーされたに違いない。特に、一緒に暮らした二十年以上の期間は、街並みや部屋の中についての視覚的な記憶は共有されたものであり、鮮明なものである。
白檀の香りというスイッチによって、その記憶の連鎖が想起されると、そこには晃子ではなく、朋子が存在したのである。
「創られた記憶…」と桜井が言い、
「そして、創られた人格…」と宮本が呟いた。
暫らくの沈黙の後、「キョウコはどういうことになるのだ」と岡田が北島に訊ねた。
「キョウコは朋子が創り出した、あるいは操っている人格状態、いや、もっと極端なことを言えば、朋子の演技かも…」
北島は、さらに、あのビデオ映像の最後が気になると言った。キョウコは、録画を止めるように笠原に言い、笠原は黙ってそれに従っている。あの後に何が起こっていたのか。
白檀の香りは笠原をトランス状態に導き、録画が途切れた後、主客が反対になり、朋子が笠原を操る暗示を与えていたのではないか。その可能性もあると北島は言った。
「清水あけみさんの自殺についても、朋子が関わっていたということですか」と桜井が訊ねると、
「おそらく…」と北島は答えた。
笠原のスキャンダルは、間接的に鷹森澄夫にマイナスになる。少なくとも、娘の純子を苦しめ、その父親をも苦しめることになる。
十一面観音は、朋子の笠原に対する暗示を強化するキーワードとして機能したのかも知れない。
「まいったな。北さんの言う通りだとして、どうやって証明したらいいんだ」
岡田は唸ってしまった。
7
「滋賀県高月町か、どこかで聞いたことがあるな…」
宮本と桜井の二人は、山野晃子の母朋子と笠原純子の父親との関係を調べた結果を岡田と北島に報告していた。
二人の捜査によると、純子の父、鷹森澄夫は旧姓村井と言い、山野朋子と同郷の滋賀県伊香郡高月町出身であることがわかったというのである。
「同郷、高月町ね」
再び、岡田は腕を組みながら、呟いた。
地図で見ると、高月町は長浜市から北へ十キロ、琵琶湖の東湖岸のほぼ北の端に位置し、人口はちょうど一万人ほどの小さな町である。東に己高山系、西に賤ヶ岳の山並が連なり、その間には肥沃な平野が広がっている。
「国宝の十一面観音があります」と、高月町の説明の最後に、宮本が付け加えた。
「そう、それだ。確か渡岸寺とかいうお寺だったな。あの『十一面観音巡礼』の最初に出ていた…。それを早く言えよ」
岡田はそう言って、宮本を睨んだ。
国宝に指定されている高月町渡岸寺の十一面観音は千百年ほど前の作と考えられ、美しい仏像として有名であり、事実、白州正子や井上靖など多くの文学者がその著作の中で、美しさを称えている。
「二人は、その十一面観音を見て、育ったわけですね」と北島が言い。他の三人は、黙って頷いた。
これで、山野朋子が十一面観音と深い関わりがあり、初台のブティックに、村井が送ったと思われる十一面観音が置かれていた理由が明らかになった。
村井澄夫は、地元の高校を卒業して、東京の聖林大学医学部に学び、聖林大学病院の内科医となった。当時、そこの院長であった鷹森達太に見込まれ、娘と結婚して、鷹森家の籍に入った。純子は一人娘として、三十年前に生まれている。
「山野晃子と一つ違いか…」と岡田は呟いた。
おそらく、村井澄夫は山野朋子を妊娠させるほど深い関係にありながら、鷹森家に婿養子で入ることを選択したに違いない。あの十一面観音には、村井のどんな思いが込められていたのであろうか。故郷の想い出のよすがとしてであろうか、自らの不実を表してのことであろうか。
「一人で、晃子さんを生んだのですね」と桜井まゆみがしみじみと言った。女性の視点からだと、鷹森澄夫のことよりも、朋子の思いの方が気になるのは当然であった。
「さて、これで、村井、いや鷹森澄夫が山野晃子と笠原純子の二人の父親である可能性が高くなったわけだが、そのことが今回の事件にどう関係しているかだ」
岡田は三人の顔を見渡した。
「笠原令司の義父、鷹森澄夫が山野朋子と関係があったということを知るチャンスが、住田にはあったかも知れません…」
宮本の考えでは、二十年以上前に住田が朋子と暮らしていた時期に、鷹森澄夫の名前を耳にしていた可能性があるというのである。山野晃子が通う、笠原メンタルクリニックを探っているうちに、笠原の不倫ばかりでなく、その義父の鷹森澄夫のスキャンダルにも気付いたに違いない。
「それほどのスキャンダルなのでしょうか?」と桜井まゆみは首を捻った。
「その辺はまだ捜査が足りないのでわかりませんが、鷹森家の社会的体面ということがあるのかも知れませんし…」
宮本は自信なさそうにそう言った。
「ともかく、住田殺害は晃子の身体を乗っ取ったキョウコが行ったことは事実だ。そして、そう仕向けたのが、笠原令司だとして、自分自身のスキャンダルをネタに恐喝されていたことが動機なのか、義父のスキャンダルのこともあったのか…」
岡田は、笠原が義父の鷹森澄夫のスキャンダルに関して、殺害するまでの動機を持つとは思えないと言った。
「ちょっと、いいですか。鷹森澄夫を守りたいと思っている人間がいるとして、最も強くそう思っているのは、山野朋子ではないでしょうか。そして、信じられないことに、山野朋子は生きているのです。晃子の中に…」
北島が表情を引き締めてそう言った。
三人は、驚きの声をあげた。
「課長には、西東京総合病院での山野朋子の最後の様子をご報告しましたが…」
北島は、「この考えが頭に浮かんだ時、自分でも寒気がした」と前置きして、話し始めた。
山野朋子は亡くなる直前の二ヶ月間、白檀を香らせながら、晃子に自分の想い出を詳しく語ったという。どんな出来事があり、その時、どのように感じて、何をしたか。立ち聞きした看護師によると、娘に話す内容としてはふさわしくないこともあったという。娘の晃子はトランス状態であり、一方的なインプットが行われたという印象であった。
結果として、朋子の一生の記憶はダイジェストではあるが、晃子の中にコピーされたに違いない。特に、一緒に暮らした二十年以上の期間は、街並みや部屋の中についての視覚的な記憶は共有されたものであり、鮮明なものである。
白檀の香りというスイッチによって、その記憶の連鎖が想起されると、そこには晃子ではなく、朋子が存在したのである。
「創られた記憶…」と桜井が言い、
「そして、創られた人格…」と宮本が呟いた。
暫らくの沈黙の後、「キョウコはどういうことになるのだ」と岡田が北島に訊ねた。
「キョウコは朋子が創り出した、あるいは操っている人格状態、いや、もっと極端なことを言えば、朋子の演技かも…」
北島は、さらに、あのビデオ映像の最後が気になると言った。キョウコは、録画を止めるように笠原に言い、笠原は黙ってそれに従っている。あの後に何が起こっていたのか。
白檀の香りは笠原をトランス状態に導き、録画が途切れた後、主客が反対になり、朋子が笠原を操る暗示を与えていたのではないか。その可能性もあると北島は言った。
「清水あけみさんの自殺についても、朋子が関わっていたということですか」と桜井が訊ねると、
「おそらく…」と北島は答えた。
笠原のスキャンダルは、間接的に鷹森澄夫にマイナスになる。少なくとも、娘の純子を苦しめ、その父親をも苦しめることになる。
十一面観音は、朋子の笠原に対する暗示を強化するキーワードとして機能したのかも知れない。
「まいったな。北さんの言う通りだとして、どうやって証明したらいいんだ」
岡田は唸ってしまった。
8
笠原令司が飯田橋の警察病院に転院してから数日経って、四ツ谷南署に一人の男が岡田を訪ねてきた。差し出された名刺には、鷹森記念病院事務次長、佐久間恭一とあった。岡田と北島の二人だけと話がしたいというのである。
佐久間恭一は、四十代半ばに見える。穏やかな表情をしているが、時折、眼光の鋭さが見え隠れしていた。北島は、自分たちと同じ匂いがすると思った。
捜査陣としては、住田忠明殺害の動機を知るために、鷹森澄夫から事情聴取をしたいと考えていた。しかし、山野晃子と笠原令司の二人が、言わば正気とは言えない現状では、事情聴取する根拠が薄弱であり、以前、笠原純子から事情聴取した時以上に、鷹森家からの抵抗があることは予想できた。そんな矢先、佐久間の訪問を受けたのである。
「私どもの理事長が、お二人にお会いしたいと申しております」
応接室で三人だけになると、佐久間はそう切り出した。
鷹森記念病院の院長は鷹森澄夫であったが、理事長はその義父の鷹森達太であった。佐久間はその理事長の命を受けて、やってきたのである。
「お二人が、最初から捜査に当たられ、一番詳しいということと、本庁の捜査一課長などとお会いすると、ことが大事になりますので…」
何故、岡田と北島の二人なのかという問いに対し、佐久間はそう答えた。
「私どものゲストルームが目白にありますので、そちらに明日ご足労いただければ、ありがたいのですが…」
佐久間の申し出に対し、「わかりました。お伺いしましょう」と岡田は答えた。
正式な捜査の一環と考えれば、今や岡田の一存というわけにはいかないが、岡田は非公式な訪問とするつもりであった。
佐久間が帰ると、北島は彼の身元を警視庁のデータベースに照会してみた。案の定、五年前まで、内閣情報調査室にいた男であった。病院の事務次長という肩書きではあるが、鷹森家に関わる政財界絡みの活動をしているに違いない。
翌日、時間通りにみなみもと町公園の入り口にハイヤーが迎えに来て、岡田と北島は目白に向った。案内されたゲストルームは、鷹森記念病院の敷地とちょうと背中合わせになっている。門は、病院の入り口の正反対にあったが、病院とは渡り廊下で行き来できる造りである。
「お聞き入れいただき、感謝します」
鷹森達太は、岡田と北島に対して頭を下げた。すでに、八十六歳になっているというが、まだ、身体に不自由な様子はなく、目の動きから、頭脳もそれほど衰えていないように見えた。
「今日の話は、オフレコということでお願いします」と鷹森達太が言い、岡田と北島は頷いた。
「それに、今回のことに関してだけで結構だが、私が、不法に情報収集したことにも目を瞑っていていただきたい」
佐久間を通じて、科捜研での天野の調査報告、北島の仮説報告の内容を入手しているというのである。二人は、一瞬躊躇したが、不承不承頷いた。
「すべて、あの世に持って行こうとも思ったが…」
と鷹森達太は話し始めた。
鷹森家は女系一族で、男子がいても、娘婿をとって継がせるのだという。鷹森達太自身も婿養子である。娘の婿として、当時の村井澄夫を選んだのは、鷹森達太とその妻であったが、実は、その時点で家を継ぐということの意味に疑問を持っていたという。しかし、親族や係累の中にあって、鷹森達太には、まだ絶対的な力はなかった。その後、孫の純子を笠原令司と結婚させる時には、鷹森の籍に入らなくてもよいという断を下せる立場になっていた。
村井澄夫に山野朋子という恋人がいることはわかっていた。鷹森達太は、山野朋子に別れてくれるように頼んだ。朋子は二つの条件を出した。一つは、村井の子供を生むこと、もう一つはブティックの開業資金を援助することであった。
「彼女は、村井が出世してくれることを望んだ。そのためには、自分は身を引いた方がよいと考えたわけだ。しかし、村井を愛した証として、子供は欲しかったのだろう。さらに、村井の気持ちが吹っ切れるように、自分を貶め、金を受け取った。実は、その金は、二十年間かけて返済してきた。澄夫には、絶対秘密という約束だった」
そこまで話して、鷹森達太はため息をついた。
「澄夫は医者としても、組織のリーダーとしても優秀だった…」
鷹森澄夫は、母校の聖林大学病院で内科の医局長まで勤め、鷹森記念病院の院長として、鷹森達太の後を継いだ。
「しかし、儂は彼から、本当の笑顔を奪ってしまったのではないかと思う…。天野理論で言えば、澄夫の中の山野朋子を愛した人格が、ホスト人格が心の底から喜ぶことを阻止していたのかも知れない」
鷹森達太は、雨の降り頻る庭を見やりながら、呟くように言った。
「澄夫の寂しそうな笑顔を見るたびに、二人を引き裂くようなことをしなければ、と思っていた。だから、孫の純子のときは、笠原に恋人がいないことを確かめてから、結婚させた。しかし…」
笠原と純子の結婚では、婿養子にもしなかった。鷹森達太が、周りの反対を押し切ったのである。それでも打算での結婚という思いが、笠原にあったのかも知れない。その思いが、別の女性を愛するように、仕向けたに違いない。
「さて、事件に関してだが、鷹森家は関与していない。住田が高森家について調べているということに関しては、佐久間がある程度掴んでいたのは確かだ。当然、それ以前に、笠原と清水あけみさんとか言ったかな、二人の関係のことも知っておった。しかし、山野朋子の娘が笠原クリニックにかかっていることは知らなかった」
そこで、鷹森達太は一息ついた。広い応接室の入り口近くに、直立不動の姿勢で話を聞いていた佐久間恭一が深々と頭を下げた。鷹森達太は、軽く右手を挙げて、責めていないことを示した。
「それにしても、もし、すでに死んでおる山野朋子の人格が娘に寄生しているとしたら、恐ろしいことじゃ…」
山野朋子は、別れてから、村井澄夫と決して会おうとはしなかった。晃子を産み、村井澄夫から送られた十一面観音を二人の想い出のよすがとして生きた。心の奥深く、彼への思いは燃え続けていたに違いない。そして、自分が若くして死んでいくことを悟った時、村井澄夫を見守るため、娘の中に分身を残したのである。
「先ほども申しあげたように、今回の事件に鷹森家が、直接かかわっているということはない。しかし、三十年以上前に、こうなる遠因を創ったのはこの儂かも知れない…」
鷹森達太は最後にそう言って、天井を見上げ、目を閉じた。