エピローグ

 釈然としないまま、北島たち警察の仕事は終わった。いつの間にか、季節は、秋へと移りつつあった。
 九月の中旬に、北島は佐藤健一と染谷百合子に誘われて、埼玉県寄居町経由で秩父へ出かけることになった。二人から「お子さんもご一緒に」と言われて、日頃の罪滅ぼしに息子の宏と娘の綾子を連れて、佐藤の七人乗り大型ワゴンでのドライブに参加した。
「寄居には、JBCの先輩から教えてもらった、鮎料理の老舗旅館があるんです。鮎の塩焼き、甘露煮、てんぷら、そして、仕上げは絶品の鮎めしだそうです」
 佐藤は、北島親子三人を待ち合わせの駅前で乗せるとそう言って、車を発進させた。
 寄居町は、熊谷と秩父の中間にあり、東京からは関越自動車道で北上し、花園インターを降りると西へ数キロの位置にある。
 一時間半ほどで、寄居市街の南端にある「京亭」という老舗旅館に到着した。この旅館は「君恋し」の作曲で知られた佐々紅華の住まいだったという。この辺りでは、荒川は上流の長瀞から続く渓谷になっていて、対岸には鉢形城跡を臨み、見事な庭と、風情ある日本建築は一見の価値がある。
 鮎のコース料理は評判どおりで、佐藤が絶品だと言っていた鮎めしは、子供達と染谷百合子が争ってお代わりをするほどのおいしさであった。
 食後、すっかり打ち解けた百合子と子供たちは庭に出て、はしゃいでいた。京亭には渡り廊下の先に洋間の離れがあり、そこにはピアノが置かれていた。庭からそのピアノが見えたのか、百合子は女将に弾いてもよいかとたずねた。
 百合子は、ピアノに向かい、暫らく目を閉じてから弾き始めた。曲は「君恋し」であった。その演奏は、楽譜なしだったにも拘らず、主旋律だけでなく、かなりアレンジされた和音が加えられたものであった。
 演奏が終わると、子供達は「凄い」と言って、盛んに拍手をした。女将も驚きを隠せないといった表情で、拍手をした。百合子は少し照れたように笑いながらであったが、深々とお辞儀をしてみせた。
 食事休みが終わると、一行は一時過ぎに寄居を出発して、二時前に秩父二十番札所の岩之上堂への登り口に到着した。
 そのすぐ近くで、清水幾太郎と佐藤が、十一面観音を彫り終わって、失神している笠原令司を発見している。その時はお参りする雰囲気ではなかったので、今回訪ねてみたのである。
「ちょっとハイキング気分で登ると十分しないで岩之上堂に着きます。僕は、車を回して、上で先に待っていますから…」
 佐藤はそう言って、四人を下ろしてから、車を発進させた。
 百合子と子供たちは、北島を残して、どんどん先に行ってしまい、北島はマイペースでちょっとした山道を登って行った。
 岩之上堂は、林の中の傾斜地にあるお堂で、実は個人所有の観音堂だという。
 北島が到着すると、お堂の近くでは、百合子と子供たち三人が楽しそうに何か話をしていた。ところが、離れたところに、佐藤が一人佇んでいる。
 北島は、佐藤に近寄り「どうしたんですか」と、後ろから声をかけた。佐藤はゆっくりと北島の方を振り返った。その顔は青ざめていた。
「彼女、ピアノ凄かったですね」
 佐藤が呟くように言った。
「ええ、あんなに上手だと知りませんでした。そう、ミュージックセラピーの専門家だった清水あけみさんならともかく…」
「そうですよね。それで、僕は先ほど、彼女の名前を呼んだのです…。そしたら、彼女振り向いて笑ったんです」
「呼ばれて、振り向いたのが何か…。えっ、まさか…」
 北島は途中でそのことに気付いた。
「そうなんです…。僕は、『あけみさん』って呼びかけたのです」
 二人は、思わず顔を見合わせ、そして、染谷百合子を見つめた。
 百合子は、本当に楽しそうに子供たちと戯れていた。

   了