十一面観音殺人事件
作:高橋伸治
第二章 事件報道
1
三月二十八日金曜日、その報道番組が始まった時、北島は浅井瞳のマンションに来ていた。何日かまともに睡眠をとっていなかった北島は、恵比寿にある浅井瞳のマンションにやってきて、シャワーを浴び、バスローブを着て、ウイスキーの水割りを飲みながら、寛いでいるところだった。
画面に、スクープという大きな文字が点滅し、美人キャスターの誉高い遠藤紀子が多少興奮気味にトップニュースを伝え始めた。
『皆さんこんばんは。JBCイレブンの遠藤紀子です。今日は、まず、JBCイレブンのスクープからです。先週、四ツ谷で起きた、木刀による撲殺事件の捜査線上に、謎の女剣士が浮上しました。午後八時のオフィスビル内で、住田忠明さんが殺害されたこの事件では、当初から、その頭部への一撃の鮮やかさにより、犯人は剣道の達人という見方がされていました。また、左利きの可能性が高いこと、犯行時刻前後にそのビルを立ち去る女性がいたという目撃証言から、これらの条件に符合する人物の割り出しが進められていました。そして、捜査線上に浮かんだのが、謎の女剣士というわけです。それでは、その謎の女剣士が通っていたという道場に、高林記者が行っていますので、呼んでみましょう。高林さん…』
『はい、現場の高林です。ここは…』
そこは、今泉が報告した道場のようであった。この画面を見て、すぐに今泉が心配になった。おそらく、JBCテレビにリークしたのは今泉であろう。北島としては、捜査での支障もないこともあり、今泉の行動に対して怒りを覚えるということはなかった。むしろ、大きな処分にならなければいいんだが、と思った。
北島の後にシャワーを浴びた浅井瞳は、暫く前に北島のそばに腰掛けて一緒にテレビを見ていた。
「この事件、あなたのところの事件だと思うけど、違う?」
「ああ」と、北島は短く答えた。
月に三日か四日ほど、北島は瞳のマンションにやってきた。
浅井瞳は、北島の高校時代の友人の妹である。その友人は、数年前にくも膜下出血で亡くなっている。浅井瞳と再会したのは、その葬儀の席であった。当時瞳は夫と離婚の話合いの最中であった。そして、一周忌の時には離婚が成立していて、北島と時々会うようになっていた。
「私のところに来ているところをみると、解決の目処がたったということかしら?」
「そう、明日逮捕状を請求することになっている」
責任能力があるかどうかに関しては問題があったが、これだけ状況証拠が揃い、動機らしきものも想定されていては逮捕しないわけにはいかない。
「それで、この謎の女剣士なの? その逮捕される人は…」
「いや、その辺がよくわからないんだ。そうだとも言えるし、違うとも言える」
「なに、それ?」
「まあ、それはいいとして、瞳は多重人格ってどう思う?」
「多重人格? 男ってみんな多重人格じゃないの。優しかったと思ったら、冷たかったりして…」
瞳は、笑いながらそう言って、水割りのグラスに口をつけた。
「いや、まじめな話でさ」
「あら、結構まじめに答えたのよ。精神的な疾患としての多重人格障害、最近は解離性同一性障害と言うらしいけど…」
「えっ、解離性同一性障害という言葉を知っているのか、君は…」
自分が知らなかった言葉が、浅井瞳の口から自然に語られたことに北島は驚いた。
「ええ、私、離婚の時、落ち込んじゃったから、その手の本をかなり読んだもの」
「そうか。それで…」
北島は瞳を抱き寄せた。
「もっとも、多くの女性には変身願望みたいなのがあって、多重人格もその延長線上のものと思われているところはあるわ。だから、解離性同一性障害などという難しい言葉も、結構知られているんじゃないかしら、女性には…」
「そんなものなのか…」
男にはわからない女の感覚というのがある、と北島は思った。
「私ね、人間って、みんな多重人格だと思うの。その極端な場合が解離性同一性障害というんじゃないかしら…。あなただって感じることがあるでしょう、心の中に別の自分がいるって…」
そう言われて、北島は子供の頃から、高いところが怖かったことを思い出していた。
「そう言えば、僕の弱点は高所恐怖症なんだが、これはかなり小さな頃からあって、こんな感じ方をしていたんだ。高いところに行くだろ、そうすると、僕の中の別の心が僕を乗っ取って、飛び降りてしまうような気がするんだ。ほんの一瞬であっても、飛び降りるには十分だろ。だから、怖かったんだ」
北島は時々不思議に思う。瞳と話をするといつのまにか「俺」ではなく、「僕」を使ってしまうのである。昔の自分が出てしまうわけである。
北島と浅井瞳が始めて出会ったのは、北島が大学一年の六月、当時瞳は中学二年生であった。その年の秋から、瞳が高校受験するまでの一年半、北島は瞳の家庭教師をした。その話が出た時、北島はそんな柄じゃないと断った。二流大学にしか入れなかった北島に対し、瞳の兄の浅井清は、難関大学である帝都大学の経済学部に進学していたこともあり、自分で教えればいいと北島は主張した。すると、清は、「勉強できない奴の気持ちがわかるお前がちょうどいい」と言って、やらせたのである。馬鹿にした話ではあったが、北島と浅井清の関係はそんなことが平気で言えるほどの仲だったのである。
「そう言えば、あなた、歩道橋もいやがっていたわね」
「ああ、なるべく渡らないようにしている」
「私の場合もね、離婚前にはっきり感じたことがあるわ。夫とうまくやっていけなくなって、それを責める人格が私の中にいるのよ。その人格は、酒とタバコをむやみにやるわけ。自傷行為っていうのかしら…。それでね。不思議なことに気づいたのよ」
「どんなこと?」
「それがね。タバコを吸いたくない人格っていうのもいることに気づいたのよ。ところが、その自分を罰しようとしている人格が支配しているでしょ。だから、そのタバコを吸いたくない人格は、ゲリラ戦法にでるわけ…」
「ゲリラ戦法?」
「そう、ゲリラ戦法。具体的には、部屋の中でタバコをわからないところに置いてしまったり、外出の時なんか、わざと持っていくのを忘れたり…」
「ふーん」
「でも結局、支配しているのはそのタバコを吸う人格だから、新しく買ったりして、吸っちゃうことになるの」
「そう言えば、最近あまり吸わなくなったね」
「ええ、でも、あなたが帰った後は吸うことがあるわ…。あなたとこんな関係を続けていることで、自分を罰しているのかしら…」
北島は何も言わず、瞳をさらに抱き寄せた。
2
翌日、北島が出勤すると、案の定、昨夜の謎の女剣士報道が問題になっていた。
「北さん、ちょっと来てくれ」
岡田はそう言って、北島を廊下に誘い出した。
「まいったよ。謎の女剣士ってきたもんだから、話が面白おかしく報道されちまって…。おそらく、今泉や中野東署方面から情報が漏れたんだと思うが…」
「今泉は大丈夫でしょうかね?」
「それだよ、それ。やっこさん、金でも貰ってなければいいんだが…」
岡田は、腕組みをして、首を捻りながらそう言った。
「あいつ、少しとっぽいところがありますからね…」
「そこんとこ、今泉と会って、釘をさしておいてくれないか?」
「わかりました。午後にでも行ってきます」
「それで、その件はそれとして、みんなに対応を指示しておいた方がいいと思うんだが…」
「そうですね。これ以上、マスコミに騒がれると捜査がやりにくくなりますからね。もっとも、多重人格ということを除けば、簡単すぎるヤマで、これ以上の捜査が必要かどうか…」
「まあ、きちんと裏づけをとるということも大事だ。その辺は頼むよ」
二人は刑事課室に戻ると、岡田がみんなを集めた。
「みんな聞いてくれ。昨夜の報道で、マスコミの取材攻勢が激しくなっている。それで、捜査に出かけるときは、途中でマスコミをまかなければならない。その辺の作戦を立ててからいってくれ…。それから、念のために言っておくが、容疑者が多重人格障害の可能性があるということは口が裂けても口外するな!」
岡田は、ギロリとみんなを見回した。
「謎の女剣士どころの騒ぎじゃなくなるぞ!」
岡田は再びみんなを見回した。
「これは、同僚に対してもだ。現在、刑事課と署長、検察関係の二人か三人の範囲しか知らないことだ。申し訳ないが、鑑識や協力部署の人間にも伏せてある。その辺のところを忘れないように…」
北島は、昨夜、浅井瞳と多重人格について話をしてしまったことを思い出し、かすかに後ろめたさを感じた。
「それじゃ、捜査の方だが、逮捕状の請求はもうしてあるから、許可が降り次第、執行することになるが、いくつか裏づけが必要なものもある。北さんと柴ちゃんを中心に頼むわ。俺は、マスコミ対策のことで署長に呼ばれているので行ってくる」
そう言うと、岡田は刑事課室をでていった。
裏付け捜査について、簡単な打ち合わせを終えると、桜井まゆみを残して、全スタッフが席を外した。北島は、山本と山野晃子の自宅から、中野の剣道場への足取りの確認を行うことにした。その後で、今泉に会うつもりであった。
四ツ谷南署では、マスコミの要望を受けて、午後一時に記者会見を開くことになった。情報のリークについては、岡田が、もともと中野方面では謎の女剣士という噂が半年も前から流れていたことであり、警察関係者のリークとは限らないし、実害はないという主張をして、不問になった。しかし、急遽組まれた記者会見によって、逮捕状の交付が遅れるという影響が出た。
北島は山野晃子の自宅から、剣道場まで車で移動して、まだマスコミがたむろする剣道場では車を降りずに、中野東署に今泉を訪ねた。
「岡田さんが、心配していた。大丈夫か?」
「ああ、マスコミにリークしたのは確かに俺だが、岡田さんが心配しているようなことは大丈夫だ。岡田さんに安心するように言っておいてくれ」
「そうか。それならいいんだが…」
「マスコミに貸しを作っておきたかったんだ。今後、頼みたいこともあるかも知れないからな」
「策に溺れて、変な関係になるなよ」
「ああ、気を付けておくよ…。ところで、そのヤマだけど、凶器に指紋がべったりというのがどうしても腑に落ちないんだが、お前はどうなんだ?」
「当然、納得がいかない。犯罪者心理から言えば、指紋を拭き取らないということは信じられない」
「夢遊病状態だったら別だけどな」
「ああ、そうだな」
北島は内心、どきっとした。
「なんだ。何か隠しているな」
今泉が横目で北島を睨んだが、北島は答えなかった。
「まだ言えないということか?」
「ああ、すまないが、お前のためでもある。知らなければ、リークしようがないからな」
「ははは、そりゃそうだ」
今泉は大きな声を立てて笑った。
「しかしな、あのJBCのやつら、別のルートから新しい情報を仕入れたらしいぞ」
「なに、本当か?」
北島は身を乗り出した。
「ああ、お前がくるちょっと前に、連中と話していたんだが、そこに電話が入って、すっ飛んでいったよ」
「どんな情報かわかるか?」
「さあ、俺から離れて、携帯で話していたからな。ただ、『カイリ』なんとかがわからないらしくて、そのことを聞き返していたな」
解離性同一性障害に違いない。ついにそこまで辿り着いたようであった。
「いや、助かった。今泉、恩にきるよ」
北島は慌てて席を立ち、中野東署を後にした。
車から岡田に連絡を入れて、JBCテレビが多重人格障害にまで到達したようだという報告をした。
岡田はまた署長たちと対策会議を持たなければならなくなった。
3
北島が二日続けて浅井瞳のマンションを訪れたのは初めてのことであった。 多重人格障害の容疑者が明日逮捕されるという情報がマスコミに漏れたことで、逮捕時の混乱が予想された。そこで、四ツ谷南署では、まだ完全には復調していない山野晃子に婚約者の宮脇康夫を付き添わせて、あるホテルに保護した。しかも、逮捕後の連行先も、四ツ谷南署ではなく本庁にするという特例措置を講じたのである。 十一時のニュースが始まった。 『昨夜に続きまして、今夜もJBCイレブンのスクープです。先週、新宿区若葉町で起きた、木刀による撲殺事件の容疑者として、多重人格障害の女性が浮かびました。明日にでも逮捕状が執行される模様です。犯罪史上初めての多重人格障害者による殺人ということで、各方面に衝撃が走っています。JBCが独自に取材して突き止めました事実も含め、今日は時間を延長してお送りします。それでは、事件現場から高林記者に報告していただきます。高林さん…』 画面には、事件の起きたビルの正面玄関前に立つ高林記者が映し出された。午後十一時という時間帯のためか、周辺は閑散とした雰囲気であった。 事件の概要が説明され、ビル周辺の景色が映し出された後、画面は再び遠藤キャスターのいるスタジオに戻った。 『それでは、多重人格障害など、精神障害に詳しい、精神科医の前沢卓治さんに来ていただいておりますので、お話を伺いたいと思います。前沢さんに伺いたいのですが、多重人格障害者による犯罪というのは前例がないと思うんですが…』 そう紹介された前沢は多少戸惑ったような表情をしながら、口を開いた。 『何からお話すべきか、迷うところなんですが、また、今の時点であまり無責任なことを申し上げるのもいかがと思いますが、今回の事件から離れて申し上げれば、日本ではこれまでにはなかったと言ってよいと思います』 『やはり、初めての事件ですか?』 遠藤が、初めてであるというお墨付きを欲しがっている様子は明らかだった。 『幼女連続誘拐殺人事件のM被告の場合、裁判の過程で精神鑑定結果の一つが解離性同一性障害だったということはありますが、私はあの鑑定結果は間違いだと思いますし、殺人事件の逮捕時にそのことがわかっていたというケースはこれまでにないですね』 『今、前沢先生がおっしゃられた解離性同一性障害と多重人格障害は同じものと考えてよろしいですね』 手回しよく準備された、「解離性同一性障害=多重人格障害」と書かれたフリップを見せながら、遠藤は前沢に同意を求めた。 『この十年ほど、精神医学用語としては、私たちはこの解離性同一性障害という言葉を使っています』 『この解離というのはどういうことですか?』 『解離というのは、解離性健忘、健忘は忘れてしまうことですが、この言葉で説明するとわかりやすいのですが、あるまとまった時間、自分が何をしていたのか思い出せないことを言います。つまり、意識と記憶が繋がらない状態という意味で解離なのです』 『多重人格の人にはその解離性健忘が起こるということですね』 『そうです…』 二人は、暫く解離性同一性障害とはどういうことかについてやり取りを続けた。ホスト人格と交代人格という考え方、人格のスイッチが起こる際の様子、子供の頃のトラウマが大きな要因であると考えられていること、女性が九割であることなどである。 『女性が九割とは知りませんでした。てっきり、男性の方が多いと思っていました』 やはり、女性が圧倒的に多いということは知られていないんだと北島は思った。 「それで、昨日、多重人格の話をしたのね」 昨日と同じように北島に寄り添いながら瞳は言った。 「ああ、捜査上の秘密だったから、話しちゃいけなかったんだが、四方山話のような振りをして話したんだ」 「事件とは結びつかなかったけど、気楽な話題という感じじゃなかったわね」 北島は黙って頷いた。 『これまで、小説や映画、あるいはテレビドラマなどで、面白おかしく多重人格が取り上げられてきましたが、あまり無責任なことはやめていただきたいと思いますね…』 テレビでは、前沢卓治が声を張り上げていた。 遠藤キャスターは前沢を落ち着かせようと真剣な表情をしている。ディレクターからの指示がでたのか、一旦コマーシャルということになった。 「昨日の話の続きだけど…」 北島が瞳に話しかけた。 「続きって?」 昨夜、瞳がしたタバコの話のことを北島は思い出していた。北島が帰った後、思わずタバコを吸ってしまうという瞳の言葉に、愛おしさが募った北島は瞳を求めていた。そのために、タバコの話は立ち切れになっていたのである。 「瞳が話した、タバコを吸おうとする自分と吸うまいとする自分の葛藤の話がさ、なんか心にひっかかっているんだ」 「どうして?」 「いや、人間というのは、強気だったり、弱気だったりするだろう。それは、その時の気分というか、体調にもよるんだろうけど…。でも、複数の人格が自分の中にいるというように感じることは少ないと思うんだ」 「あら、あなただって、高所恐怖症は、飛び降りようとする自分を感じているからだと言わなかったかしら」 「それは、根拠のない恐怖なんじゃないかな」 「違うと思うわ。あなたが認めたくないだけで、その恐ろしい別のあなたは確かにいるのよ」 「怖いこと言わないでくれよ」 「いえ、解離性同一性障害とか多重人格障害とかじゃなくても、ある条件が揃えば、自分の存在に終止符を打つ役割の人格というものが人の心の中にはいるのよ。昨日は話さなかったけど、自傷行為としてタバコを吸う人格なんてかわいいもので、別れた夫が出て行ってから、二ヵ月くらい経って、私、本当に自殺を考えたもの…」 見る間に瞳の瞳には涙が溢れていた。北島は、瞳を強く抱き寄せた。 「悪かった。辛いことを思い出させて…」 「うーん、いいの。先生がいてくれたから、自殺しないですんだと思うから…」 北島が瞳には「僕」と言ってしまうように、瞳は時々、北島を先生と呼んでしまう。実は、浅井瞳の初恋の相手が北島であった。家庭教師のことも兄に頼んでのことである。しかし、瞳が高校進学後は、お互いに違う道を歩み、それぞれ配偶者を得た。浅井清の突然の死がなければ、二人の再会もなかったかも知れない。 以前、瞳が話してくれたことであるが、瞳が北島を好きになったのは、兄の清が北島を高く評価していたからだという。瞳は幼いころ、病弱だったこともあり、五歳年上の清は妹の面倒をよく見ていた。瞳にとっては、清は一番身近で信頼できる存在だったのである。清は飛び抜けて学業成績がよかった。中学時代は、主要科目すべて満点という離れ業を何度か達成している。北島もそこそこの成績ではあったが、浅井清と比較すると桁が違うというところであった。その清が北島と同じ高校に進学したのは、自宅から極めて近いところに高校があったからである。 『確かに、僕の方が学校の成績はいいけど、それは顕在化している能力の問題で、北島の潜在能力は凄いよ。なんて言うか、物事の本質を捉える力とでもいうのがあるんだ。学校の成績なんか、切っ掛けさえあれば、よくなると思うけど、持って生まれた力では、北島に適わないと思うよ…』 清がそう言い、瞳はそれを信じた。 北島と浅井瞳を結び付けているのは、清の想い出、つまり記憶である。瞳は生まれてからずっと、清の行動や話し方を見てきていた。北島も中学校時代・高校時代、そしてその後の付き合いの中で、同じように彼のことを見てきていた。すでに清は存在していないが、ほぼ同様のイメージとして、北島と瞳の中で生きている。北島はそう感じていた。
4
山野晃子は、三月三十日日曜日、午前九時八分に逮捕され、警視庁に連行された。折りしも、桜田門付近は桜が満開の季節であった。四ツ谷南署の動きを張っていたマスコミ各社は肩透かしをくらった恰好になった。それでもテレビ各社は、日曜午前中のニュースショー的な番組のかなりの時間を割いて、この事件を報道した。
四ツ谷南署から、署長と岡田刑事課長が本庁に出向き、一応四ツ谷南署の事件として取調べをする形をとったが、実質的には本庁の刑事部捜査一課と同じく刑事部科学捜査研究所の扱いとなっていた。
近年、鑑識と連動したミクロン単位の物理化学的な分析に加えて、プロファイリングに代表される犯罪心理学的なアプローチの進歩は目覚しいものがあった。そのため、警視庁からも毎年、アメリカのFBIの犯罪研究所へ数人の研修者を送り出していた。その結果として、科学捜査研究所には、精神障害者の事件に詳しいスタッフも揃っているのである。
四ツ谷南署に残った北島たちは今後の捜査について話をしていた。
「北島さん、課長はどう言っていましたか?」
「いや、具体的な指示ではなく、俺たちで考えて捜査しろということだった。もっとも、本庁に捜査の主導権は移っているから、俺たちのやれることは限られているけどな。それじゃ、皆の意見を聞こうか」
柴田の問いに北島はそう答えて、全員の顔を見渡した。
「その前に、聞きたいんですが…。この前も宮本さんが言いましたが、山野晃子に対して罪が問えるんでしょうか?」
山本が北島に尋ねた。
「いや、わからん。しかし、心神喪失とか耗弱とかにしても、専門家の精神鑑定書と同じ比重で、我々が捜査して集めた証拠を元に判断されることは間違いない。だから、捜査の手を抜いちゃだめだと思う」
「それにしても、的確な捜査をするためには、我々自身が解離性同一性障害について、もっと知っていなくちゃだめじゃないんですか?」
「なるほど、理屈だね。山本、お前、ラグビーでやられた頭、大部直ってきたんじゃないか」
「柴田さん、それはひどいですよ。もともと、ラグビーは知能スポーツなんですよ」
柴田にからかわれて、山本が口を尖らせて、抗議した。
「よし、わかった。それじゃ、まゆみ君と山本はそれを調べてくれ。柴ちゃんと宮本は、山野晃子と謎の女剣士が同一人物であること、やはり指紋かな、まあ、とにかく、その辺りをあたってくれ…」
北島は、課長に代って、そのように指示を出した。
柴田と宮本が出かけ、桜井まゆみと山本が情報検索のためパソコンに向かって作業を始めると北島は副署長のところに行った。
署長が岡田刑事課長と本庁にでかけているので、副署長の横山信夫が留守を預かり、マスコミ対策をしていた。
「北島君、まだマスコミさんたち、うちの周りにも残っているんだよね。桜も満開なんだから、お花見にでも行ってくれれば、ありがたいのだけれど…」
本庁に連行され、そこで取調べを受けていることがわかっても、まだ十人以上が四ツ谷南署の受け付け付近にたむろしていた。
「それで、また、会見を開けとでも言っているんですか?」
「いや、そうは言っていないが、君の方からちょっと話してやってくれないかな、昼前くらいに…。俺が出ていくと、公式発表みたいなことになるし…」
「どこまで、話をしちゃっていいですかね…。その辺がわかりませんが…」
「いや、これまで発表されていることでいいから、顔を出してやれば、サービスになると思うよ」
ここ数年、警察の不祥事があいつぎ、マスコミへの対応が悪いとますます叩かれる。所轄署のトップたちも神経質になっていた。
北島は会議室を一つ借りてもらって、マスコミの質問に答えることにした。
「刑事課係長の北島です。公式な会見ではありませんが、捜査状況についてこちらの捜査に支障がない範囲でご質問にお答えします」
そう断って、北島は質問を受けた。
中には意地の悪い質問も混じっていた。
「本庁に取り上げられて悔しくありませんか?」
と聞いてきたのは、JBCテレビの記者であった。JBCイレブンを担当しているメインの高林記者ではなく、若手の佐藤健一であった。彼自身、本庁は高林、自分は四ツ谷南署という位置付けが悔しかったのかも知れない。
佐藤が言う通り、山野晃子の自宅の家宅捜査も四ツ谷南署ではなく、本庁の扱いになっていた。刑事課の誰もが多少はプライドを傷つけらていることは確かであった。しかし、その反面、肩の荷が降りたと言う気持ちもあることも否定できない。
一通りの話が終わって解散になると、北島はその若手の記者を呼び止めて、訊ねた。
「あなたは、中野東署の今泉から話を聞いた記者の方ですか?」
「えっ。ああ、そうです。JBCテレビの佐藤です。今泉さんにはお世話になっています」
そう言って、にやっと笑った。「お世話になっています」がリークのことを仄めかしていることは明らかであった。
「今泉から聞いたんですが、犯人が解離性同一性障害の可能性があるという情報はどこから入手したんですか?」
「北島さん、ニュースソースを我々が明かさないのはご存知じゃないですか」
「ええ、勿論。だめもとで聞いただけです」
「ははは、面白い人だな、北島さんって。でも、今回はピンポーンです」
「えっ、どういうことですか?」
「あえて、質問したことが正解だったということですよ。実は、ニュースソースがこちらにもわからないんです。要するに匿名のタレコミですよ。しかも、Eメールのね」
「Eメールですか。それで、発信元はわからないんですか?」
「あるインターネットカフェからでした」
「そこはどこですか?」
「うーん…」
流石にそれ以上話してしまうことに、佐藤は抵抗を感じたようだ。
「いいじゃないですか。教えてくださいよ。そちらから情報提供を頼んだニュースソースならともかく、匿名のタレコミなんだから…」
「わかりました」
そう言って、佐藤はメモを書いてくれた。
「北島さん。こういうことにしてください。これは私が書き損じたメモを捨てたものです。北島さんは勝手に拾った。そういうことで…」
佐藤はメモを丸めて、机の上に置くと、目礼して出て行った。
「書き損じのメモか…。今泉の得意技だったな」
北島は鼻で笑いながら、そう呟いた。
5
朝出て行った柴田と宮本は午後二時に一旦戻ってきた。
何ヶ月か前のことであり、謎の女剣士の指紋が付着していると思われるものも少なく、道場の申し込み用紙くらいのものであった。一応持ち帰って、鑑識で指紋の検出をすることになったが、あまり期待できるものではなかった。
桜井と山本は、インターネットを使って調べた百ページほどの資料をプリントアウトしていた。
「いや、随分あるじゃないか」
帰ってきた宮本が大きな声を出した。
「皆さん揃ったところで、資料からわかったことをご説明したいと思います」
桜井まゆみと山本は、インターネットの検索で、解離性同一性障害に関するサイトを検索し、約二百五十の資料を発見した。その中からさらに絞り込んで、三十くらいをプリントアウトしたのである。
「二百五十もあるのか?」
「いえ、少なくて助かりましたよ。これまで、他のキーワードで検索した経験では、何千も出てきて、うんざりするばかりでしたから…」
「インターネットの世界では、二百五十は少ないというわけか」
「それで、分かったことは?」
北島に促されて、桜井と山本が時折交代しながら説明を行った。
解離性同一性障害という用語の定義、精神的障害体系の中の位置付けなどは、全員にコピーが配られた。日本における治療に関して、JBCイレブンの解説に引っ張りだされた前沢卓治を含む三人が多くの臨床経験を持つ医師であり、笠原令司は二番手グループの十人ほどに入ることがわかった。
「合わせて十数人ほどの専門家たちの中で、ホームページを開設しているのは、七割ほどです。もちろん、笠原メンタルクリニックも開いています。それと、患者たちが集うサイトがあることがわかりました。本当に生々しい声が寄せられています」
北島に差し出されたその資料には、『多重人格者、彩子の部屋』というタイトルがついている。彩子とは、サイコロジーなどに使用される「こころ」を意味する「サイコ」を捩ったもののようである。
「その、彩子の部屋というページを開いている人は、二年前に解離性同一性障害と診断され、同じ病気で苦しんでいる仲間とコミュニケーションできる場を作りたいということで、一年前から始めたようです」
「本当にまじめなサイトなのか?」
「ええ、彩子の部屋はまじめなサイトだと思います。でも、他には遊びというかいたずらというか、危ないサイトもたくさんあります」
「それから、天野精一郎という精神科医が、面白いことを発言しています」
桜井まゆみが横から口を挟んだ。
「どんなことだい?」
「はい、人間は基本的に多重人格であり、いわば、非解離性多重人格というのが一般的な状態だと言うんです」
「非解離性?」
「つまり、人間の心というのは、大部屋方式の事務所みたいなもので、沢山の人格が共存していると考えるモデルです。個々の人格同士はお互いにやっていることが見えているわけです。それが、トラウマによって、部屋の中がパーティションで仕切られた状態になるのが、解離性同一性障害だというんです」
「ほう。俺たちみんな多重人格者だということか?」柴田がそう言うと、「そういうことになりますね」と山本が真面目な顔で答えた。
その時、電話が鳴り、柴田が受話器をとった。鑑識からの連絡だった。
「北さん、かすかですが、指紋が検出され、山野晃子のものと一致したそうです」
「そうか。これで、謎の女剣士が少なくとも、肉体的には山野晃子と一致したということだな…。柴ちゃん、課長の方にも連絡してやってくれ」
「わかりました。それで、この後はどうしましょうかね」
「その前に、まだ話していなかったが、本庁が山野晃子のマンションをガサ入れして、剣道の胴着や竹刀などを発見したそうだ。それとカツラやビジネススーツ、それらも隠し戸棚のようなところから発見されたということだ」
「隠し戸棚ということは、キョウコがホスト人格の山野晃子に知られないようにしてあったということですかね」
「そういうことだろうな…。それで、我々の捜査だが…。問題は殺害の動機になったと思われる事実の洗い出しだな…」
「最近の嫌がらせとか、タカリについては調べがつくと思いますが…」
「そうだな。元を辿れば、二十三年前のトラウマだからな。裏が取れるかどうか…。母親は死んでいるし、生きていたとしても、知らないところで起こっていたということもある…」
二十三年前、住田による山野晃子に対する性的虐待があったということは、笠原令司が証言しているだけである。そう考えて、北島は初めてこの点の危うさに気づいた。
「さあ、どうするか…。そうだ、若いお二人さん。まゆみちゃんと山本。解離性同一性障害を研究した成果を発揮して、その辺のところ調べてみてくれないか。難しいとは思うが…」
「わかりました。やれるところまで、やってみます」
そう言って、山本は頷いたが、桜井まゆみの方は自信なさそうな表情をしていた。
6
その日は、昼過ぎから雨になった。月が変わって、四月になっていたが、この季節の雨はまだ冷たい。震えながら帰ってきた桜井が北島のところにやってきた。
「あの、この前説明したインターネットの検索結果のことなんですが…」
「どうかしたのかい?」
「説明しなかったことで、一つ、お話しておいた方がいいと思うことがあるんです。実は、虚偽記憶の問題なんです」
「なんだい、その虚偽記憶というのは。偽りの記憶ということか?」
「ええ、その偽りの記憶です。先進国といっていいのかわかりませんが、アメリカでのことなんですが…。まず、解離性同一性障害というのは、幼児期の虐待が主要な原因だということはいいですよね」
「ああ、特に女の子に対する性的な虐待ということだろ」
「その虐待を受けた記憶というものは、セラピー、つまり治療によって、取り戻されるものだということもいいですね」
北島は黙って頷いた。
「ところが、その取り戻されたとされる記憶が真実ではないということが多いことがわかってきたそうです。治療中のセラピストの誘導によって、実際にはなかった虐待の記憶が作られてしまうというのです」
桜井が言うには、患者とセラピストとのやり取りは次のようなものだという。
『あなたはその時、怖い思いをしたのではありませんか?』
『ええ、怖くてたまりませんでした』
『誰かいたのですか? それは大人の男ではありませんか?』
『そうです。大きな人でした』
『それはあなたのお父さんではありませんか?』
『そうです。お父さんです。やめて、そんなことは!』
「要するに、セラピストの方に予断があり、患者は誘導されて、そのような虚偽のストーリーを語ってしまうということなんです」
「創られた記憶というわけか…」
「アメリカでは一九九〇年代になって、解離性同一性障害が一種のブームになると同時に、このような虚偽記憶の問題がクローズアップされてきたそうです。そして、ついに、そのような虚偽記憶により被害を受けた家族たちが、虚偽記憶症候群財団なるものを結成して、セラピストたちとの戦いを始めたというんです」
「そんな団体を作るとは、アメリカという国は不思議な国だな…」
北島はつくづく思った。
「しかし、もし、解離性同一性障害と診断された子を持つ善良な親にしてみれば、傷口に塩を刷り込まれるようなものだと思います。我が子が心の病に苦しんでいること自体が辛いことなのに、その原因が身に覚えのない性的幼児虐待だなどと決め付けられるのですから…」
この財団は、被害者になった家族を中心に、精神科の医師や心理療法士などの専門家により構成されている。その後、一度は偽りの記憶を取り戻し、両親を非難したことのある患者で、前言を取り消した人が加わっているという。
北島がわからなかったのは、虚偽記憶症候群財団の症候群という部分である。桜井によると、イギリスにある同じ目的の団体は、単に虚偽記憶協会だそうだ。
「症候群というところが納得できないが、ともかく、多重人格をめぐっては、想像もつかないことが起こっているんだという気がするね…」
「ええ、そうですね」
二人は頷きあった。
「ところで、それこそ虚偽記憶じゃないが、住田忠明が山野晃子に対して、幼児期にいたずらをしたという証拠に関しては何かつかめたかい?」
「いえ、当時のことを知る人に何人か話を聞いたのですが、だめでした。傍目には山野晃子は住田に懐いていたように見えたようです」
「いたずらは密室で行われていたことだろうし、それ以上ひどい目に遭いたくないから、山野晃子は住田に媚を売っていたかも知れないからな」
「唯一、その現場を目撃する可能性があるとしたら、母親の朋子ですが、彼女はもうこの世にいないわけですし…」
「よし、これに関する捜査は打ち切ろう。しかし、そうなると、後は横道の捜査しか残っていないな…」
「横道ですか?」
「ああ、ほら、JBCへのタレコミだよ」
「ああ、あのインターネットカフェのことですね」
「明日、山本と一緒にあたってみてくれ」
「はい、わかりました」
桜井が自分の席に戻っていった。
「虚偽記憶か…」
北島はタバコに火をつけながら呟いた。
7
その日、北島は久しぶりに自宅に帰った。深夜近かったので、息子の宏と娘の綾子はすでに眠っていた。今は春休みだが、息子が小学校の六年生、娘が四年生である。
妻の直子は「お帰りなさい。お疲れさま」とねぎらいの言葉をかけながら、北島が脱いだコートと上着を受け取って、ハンガーに掛けた。
直子の優しさが北島に後ろめたさを感じさせる。少し、不機嫌な態度をとられる方が救われる気持ちがするに違いない。もちろん、浅井瞳とのことは気付かれていないと北島は思っている。しかし、女はわからない。気付かない振りをしているだけなのかも知れない。北島に対して、優しく接するのは、夫の仕打ちを暗に責める手段なのではないかと考えることがある。
浅井瞳との関係は三年以上になる。妻との関係がおかしくなって、瞳との関係ができたわけではない。言わば、二股をかけているということであり、確かに自分はずるいと北島は思う。
「子供たちに変りはないか?」
直子が煎れてくれたお茶を飲みながら、北島は言った。
「ええ。でも、宏は卒業式が寒かったみたいで、少し風邪をひいたみたいなの」
「卒業式?」
一瞬、北島には意味がわからなかった。宏は今度、小学校の六年生になるはずである。まさか、自分の記憶が一年間とんでいるというわけではないだろうか。北島は解離性健忘という言葉を思い出していた。
「ほら、送り出す側としては一番高学年だったから…」
「ああ、そういうことか」
北島と直子との会話の中身は、ここ数年子供たちのことに終始している。特に北島が浅井瞳との関係ができてからはその傾向が強い。
「宏も今度六年生か…。早いな」
「綾子も四年生…」
「そうだな」
「私、何か始めようかしら。子供たちも手がかからなくなってきたし…」
珍しく、直子は子供や学校以外の話を始めた。
「何かって?」
「スーパーのレジなんかのパートも小遣い稼ぎにはなるんだけど、でも、なんか自分の身につくものがいいわ。ハーブやアロマテラピーのような」
アロマテラピーという言葉に北島は驚かされた。北島にとっては、アロマテラピーは浅井瞳を連想させるものだからである。
「アロマテラピーというのは女性に人気があるようだね」
北島は動揺を悟られないように、平静を装って言った。
「あら、あなた知ってるの?」
「ああ、言葉くらいはね…」
アロマテラピーがフランスに始まり、イギリスで準医学療法にまで高められたものであることを、北島は浅井瞳から教えられていた。しかし、直子には知らないことにしておかなければならない。
「そう言えば、この前行った病院の待合室、ラベンダーの薫りがしていたな…」
北島は笠原メンタルクリニックを訪ねたときのことを思い出した。
「あら、消毒薬の臭いとかと混ざって、よくないでしょうに…」
「いや、そういう病院じゃ…」
しまったと思ったが、もう遅かった。
「ああ…」
と直子は小さく頷いて、それ以上を言わなかった。事件に関係したことであることを悟ったのである。
雰囲気がまずくなったので、北島は立ち上がると、風呂に入ることにした。
風呂に入りながら、直子と瞳のことを考えていた。
北島が直子と結婚したのは、北島が二十五歳、直子が二十四歳の時である。北島の世代くらいまでは、警察官は早婚が奨励された。女性問題での不祥事を起さないようにするためだとも言われている。結婚に際しては、警察官本人の採用時がそうであるように、配偶者に関しても、しっかりした身元調査が行われる。以前は事件捜査なみの身元調査が行われたとも言われている。最近でこそ、プライバシー保護の問題もあり、そこまで露骨には行われなくなった。
身元調査が必要ないということでは、職場結婚、つまり婦人警官との結婚が望ましい。採用時に身元調査が済んでいるからである。事実、警察官同士の結婚は少なくない。
直子は婦人警官ではなかったが、当時の所轄署の刑事課長の姪だったので、やはり身元調査が必要のない場合と言える。堅苦しい見合いということではなかったが、恋愛ということでもなかった。逆に言えば、お互いに熱に浮かされず、冷静に相手の性格を確認できたとも言える。もっとも、人の心の本当のところは、そう短期間には見抜けないものである。結論から言えば、周りの人に決めてもらった結婚ということになる。
結婚して暫くして、ある年配の知人からこんな話を聞いた。
『妻を見て、男を評価することはできない。それは、まだ、人を見る目がない若いうちに結婚というものは行われてしまうからだ。しかし、愛人を見れば、その男の価値がわかる。何も容姿のことを言っているわけではない。人間性のことを言っているんだ。だから、愛人を選ぶときは心して選ぶべきだぞ』
さて、浅井瞳はどうなのであろうか。何も、自分を評価してもらうためにそういう関係になったわけではない。多少言い分けかも知れないが、当時の瞳が無性にいとおしく思えたから、そばにいてやりたかっただけである。
風呂から出て、居間に戻ると、ビールとつまみが用意されていた。
「お仕事の方は一段落したの?」
ビールを注ぎながら直子は訊ねた。
「いや、まだそういう訳じゃないんだが、山は越えたというところかな…」
あいまいな返事をしながら、北島はビールを乾いた喉に流し込んだ。
「私も飲んでいいかしら?」
今日はいつになく、妻の方から触れ合いを求めてきている。北島としては、このところ、そういう雰囲気になるのを避けるようにしてきた。後ろめたさに苛まれるからである。
直子は北島がついでやったビールをおいしそうに飲み干すと、もう一杯というようにグラスを差し出した。北島は、難しい顔をしてビールをついでやった。
「もうすぐ、ゴールデンウィークになるわね…」
「ああ、そうだな…」
実は、ゴールデンウィークの前に、二人の結婚記念日がある。十三年前の四月に二人は結婚し、人並みに新婚旅行に出かけた。香港とマカオ三泊四日の旅であった。もちろん、新婚旅行ということで、そこそこ高額なツアーに参加したのであるが、ゴールデンウィークを避けたこともあり、運のいいことに二人だけのツアーになった。専属の運転手とガイドが付いた貸切旅行になったのである。
実は結婚が決まってから、直子がわずか一年ばかり前に深いつきあいのあった男に酷い捨てられ方をしたという話が北島の耳に入った。過去のことは関係ないと思いながら、結婚式と新婚旅行の際、北島にはこころにわだかまりがあった。しかし、二人の前途を祝福するように新婚旅行が貸切ツアーになり、疲れてマカオの公園のベンチで、北島に拠りかかってうたた寝する直子の無邪気な顔を見ると、北島のこころは晴れた。
その後、息子が生まれ、娘が生まれ、数年間はお互いへの信頼が確実に育っていった。そう、北島が浅井瞳と再会するまでの数年間である。
その日、北島は数ヶ月振りに直子を抱いた。
直子は自分からモーションをかけることはない。少なくとも、北島に対しては受身であった。何も言わず、黙って愛撫を受ける。どうして欲しいとも言わない。しかし、それでいて、感じやすい体をしていた。声を出すまいと耐え、つらそうに喘ぐ。そして、達すると暫くは全く動けなくなるほどぐったりとしてしまう。
浅井瞳は、直子とは正反対で、自分から北島に抱き付いてきては、唇を求め、舌を絡ませて、しびれるような快感を求める。抱き合う時も、自分の方から上になり、激しく腰を動かす。
北島は直子を抱いた後に、自己嫌悪に陥っていた。単に、直子と瞳という二人と関係を持っているということではなく、二人とのセックスを比べている自分に気付いてのことであった。
直子に対しても、瞳に対しても何と言う酷いことをしているのだろう。直子を愛している自分と、瞳を愛している自分は一体同じ自分自身なのか。いっそ、別人格がそれぞれ愛していると思えた方が楽である。そう、多重人格であることを認めることができれば、救われるのではないだろうか。北島はそう思った。