第三章 解離性同一性障害

   1

 四月二日水曜日、事件発生から十六日目、北島は、山本たちがインターネットで見つけた天野精一郎に会ってみようと思った。普通の人間もすべて多重人格であるという考え方を、直接、聞いてみたかったからである。
 天野精一郎は、帝都大学の医局に勤めていた。訪問の意向を伝えると、明日 以降は遠方に出張の予定があり、その日の夜ならいいということであった。
 都心にありながら、ちょっとした林に囲まれた帝都大学の医学部の建物は、夜間に訪問する場所としてはふさわしくなかった。他の病院では手に負えなくなった患者が多いために、そこで亡くなる率は極めて高いという噂もある。死者の霊が漂っているような気がして、北島は小走りになった。
 天野精一郎は、帝都大学医学部の助教授で、四十歳になったばかりの男であった。体格的には中肉中背、額が大きく、縁なしのメガネをかけた典型的な学者タイプの男であった。
「あの事件を担当しているそうですね」
 電話で、概要については話してあった。
「ええ、天野さんはどのように考えているのでしょうか?」
「不謹慎ではありますが、大変興味深くことの成り行きを観察しているといったところです。事件の後、入ってくる情報は皆さんと同様にマスコミからのものだけですが、テレビに出演している前沢先生や赤城先生のことは以前からよく知っていますから、個々の発言の背景などを推理しながら見ていると興味深いですね。それに…」
「それに?」
「マスコミに発表されていませんが、容疑者の主治医は笠原さんでしょうから…」
「やはり、同業者ということでご存知なわけですね」
「ええ、笠原さんとは同い年ということもありまして、若い頃から親しくしています。実はアメリカ留学も、同じ大学で二年間一緒でした。二人とも三年の研修留学なんですが、私が一年早く行っていて、彼が一年遅く帰国という関係なんです。向こうでは、飲んでよく話しました。帰国してからも、患者に関して、ある程度の情報交換はしていますから…」
「患者に関してもですか?」
「もちろん、個人名を明かすということはありませんが…。実は、解離性同一性障害の患者は日本でも増えてきていますが、それでも臨床治療中の患者の数はたかが知れています。診断や治療方針についても、同業者間で意見交換をした方がいいと思っています」
「そういうことですか…。実は、今日伺ったのは、捜査上のこともありますが、個人的にも、先生の非解離性多重人格という考え方に興味がありまして…」
「ホームページをご覧になったのですか?」
「ええ。捜査の必要上、キーワード検索をしまして、二百五十ほどのサイトを確認させていただきました」
「そうですか。それでいらしたということですね。しかし、非解離性多重人格の考え方はまだ市民権を獲得したとは言えない状態でして…」
「どうしてですか?」
「それは、これまで私自身が育ってきた学派、精神分析学派、いわばフロイト学派の存続にかかわることだからです。フロイトはご存知ですね?」
「まあ、フロイトという名前と夢判断とかリビドーとかいう言葉程度なら、聞いたことがありますが、詳しくは…」
「まあ、一般的にはそのくらいご存知なら十分でしょう。そもそもフロイトはですね…」
 天野はフロイトについて話し始めた。
 フロイトが精神医学の分野で、精神分析という確固とした学派を確立したのは、一九一〇年代と言われている。その後、一九七〇年代に至るまで、多少の軌道修正はあったとしても、基本的にはフロイトが確立した、意識・無意識を中心とした心のモデルが社会的に受け入れられてきた。
「フロイトの心のモデルへの疑問が投げかけられることになったのは、アメリカにおけるベトナム戦争から帰還した兵士たちの心の病からでした。PTSD、ご存知のようにトラウマがもたらす諸症状のことです」
「トラウマを研究することになって、多重人格という問題が出てきたということですか?」
「まあ、厳密には違いますが、そう考えればわかりやすいですかね。重要なことは、精神分析はその始まりにおいて、多重人格を否定するところから始まっているということです。実は、十九世紀から二十世紀初頭にかけて、多重人格の研究がかなり進んでいたという事実があります」
「百年以上前にですか?」
「ご存知の『ジキル博士とハイド氏』が刊行されたのは一八八六年、百年と少し前ですし、学術的に多重人格が論じられたのは、さらに百年前、一七九一年ドイツの精神医学者が出版した『人格の入れ替え』という本だと言われています」
「二百年、ですか」
「話を戻して、フロイトの時代のことですが、二重人格はフランスのジャネという精神科の医者を中心として研究されていました。現在でもそこそこ通用する心のモデルが存在したのです」
「それをフロイトが抹殺したということですか?」
「そういうことになりますね。精神分裂症の中に封じ込めたというべきでしょうか…」
「それでは、いわゆる多重人格障害は二十世紀後半になって突然出現したのではなく、その前の百年間にも存在していたが、それが精神分裂症として見なされてきたということですか?」
「その前の百年間ではなく、もっとずっと前からです。原理的には、人間が誕生したときからと言えます」
「なるほど、そういうことになりますね。しかし、フロイトは何故、多重人格を否定したのですか?」
「さあ、本当のところはわかりません。あるいは、双子や三つ子などの多胎児を、動物のようだと嫌いますが、そんなところに通じるのかも知れませんね…。要するに、PTSDはともかく、解離性同一性障害を認めることは、フロイトの心のモデルを否定することであり、反旗を翻すことになります。ましてや、通常人が多重人格であるという考え方はなおさら受け入れ難いものなのです」
「その学派内での問題はともかくとして、先生の非解離性多重人格の説明をしていただけないでしょうか」
 北島の依頼に、一瞬間を置いて、天野は話し始めた。
「私が健常者、つまり普通の人も多重人格であると考えるようになったのは、自由連想をしている時の経験がきっかけです。自由連想というのは、精神分析の治療方法として長い歴史を持っています。患者にリラックスしてもらって、思いつくことを脈絡がなくてもいいということで、自由に話してもらいます。医師はその中から、疾患の原因となったと思われる出来事を紡ぎ出していくというものです」
「先生が治療中に気づかれた、ということですか?」
「いえ、逆です」
「逆?」
「ええ、実はまだ研修中のことなのです。研修として、先輩医師に治療法の指導を受ける中で、ロールプレイ方式で、患者の役になって、促されるままに自由連想を実体験してみるわけです」
「なるほど、ロールプレイで、患者の側をやってみるのですね」
「その時に、実感したことは、思いつくことの何分の一も口に出せないということです。人は、いえ、少なくとも私は、本当に支離滅裂で膨大な言葉やイメージを思い浮かべているわけで、そのすべてを話そうとするととても口が間に合いません。北島さんはどうですか?」
「さあ、自由連想などしたことがありませんから…。ただ、考える速度と話す速度は桁が違うという実感はありますが…」
「そうですね。普段は何となく感じていることが、自由連想をしてみるとよくわかります。思いつくことすべて、という原則に忠実であろうとすればするほど、その非現実性に気づかされるわけです」
「そうなんでしょうね」
「その際に、先ほども申し上げたように、思考の支離滅裂さにも、改めて気づかされました。当然、それまで学んできた精神医学のこと、大学での授業、友人との付き合いなどから連想は始まります。しかし、食べ物のこと、一昨日転んで怪我をしたこと、突然、家族のこと、小学校のことと連想は続きます。それが必ずしも尻取りのように繋がっていくのではなく、極めてランダムという気がします。中には、ガールフレンドとのセックスのことが思い出されたりします。そんなことは恥ずかしくて、自由連想の中で話すというわけにはいきません…」
「なるほど、わかるような気がします」
「まあ、いわば、頭の中はごった煮状態です。これが普通なんじゃないかと考えるようになったわけです」
「先生は、人の心を大部屋方式の事務所というような例えをしていましたね…」
「ええ、解離という現象はパーティションや荷物などで部屋全体が見通せなくなって、他の人格が何をしているのか分からなくなることに例えられます」
「普通は全体が見渡せているということですね」
「ええ、ホスト人格というのは、言わば、部長とか課長とか、その部屋の責任者のようなものと考えられます」
「なるほど…」
「ただ、この大部屋方式の事務所という例えで、すべての現象の説明ができるわけではありません。非解離性多重人格という言葉自体も、苦し紛れのもので、私自身納得していません…」
 天野がここまで話した時、部屋にある柱時計が午後十一時を告げた。
「すいません。もうこんな時間ですから、失礼いたします」
 北島はそう言って、席を立ちかけた。
「そうですね。出張から戻りましたら、またお訪ねください。ああ、それから、事件に関してですが…。よろしいですか?」
 天野はそう言いながら、北島に対して、手で、もう一度腰を下ろすように促した。
「と言いますと?」
「差し出がましいのですが、解離性同一性障害というものは極めて複雑な現象ですので、笠原さんの証言だけを根拠に捜査をすすめることは危険だと思います。その辺りにご注意いただきたいと思います」
「虚偽記憶ということですか?」
「ほう、虚偽記憶症候群のこともご存知ですか? まあ、それも含めてということですね」
「つまり、他の専門家の目も必要だいうことですね。わかりました。その際は、先生にもお願いするかも知れませんが…」
「私にできることであれば、喜んでお手伝いします」
 天野はそう言って、頭を下げた。

   2

 「なあ、北さんよ。知っての通り、俺が現役の頃は、状況証拠をどんなに固めたところで、犯人の自供を引き出せなければ、起訴できないという感覚だった…」
「ええ、そうですね。課長が以前、落としの岡田という異名を持っていたことは私たちの世代はみんな知っていますよ」
 四ツ谷南署の刑事課は二階の一番奥にあった。マスコミなどの部外者が勝手に入り込めないように配慮されていたのである。
 四月四日金曜日、慌しい昼食を済ませた課員が出払った刑事課に、岡田と北島だけが残っていた。今度のヤマの話から、岡田は容疑者の自供を引き出す技術について思い至ったようである。
「いや、昔はさ、俺なんか足元にも及ばない落としの達人というのがたくさんいたよ。俺もそんな先輩を見て育ったというわけだ。まあ、普通、自供させるという場合は、動かぬ証拠を突きつけて、恫喝して、強引に供述させるのがほとんどだが、そういうのは達人とは言わないわけだ」
「そうですね。相手の良心を引き出すと言うか…」
「それだよ、それ。今回のヤマで俺はつくづく考えさせられたんだ…」
「……」
「人の心には沢山の人格が棲んでいるというのは本当だと思う。実際、人を平気で殺してしまうやつが捨て犬を拾って育ててやるという優しさも持っている。これが同じ人間のやることかと不思議に思ってきた。しかし、北さんが話を聞いてきた天野とかいう精神科医が言うように、病気の人間だけでなく、普通の人間の心の中にも複数の人格が棲んでいて、どの人格が表に出るかによって、行動が違ってくると考えるとよくわかるんだ」
「そうですね。その個々の人格というのは、特定の記憶と結びついていて、その記憶を思い出すようにしむけると、人格がスイッチする…」
「それで、落としと繋がってくるわけだ。凶悪と言われる殺人犯でも、家族や友人と穏やかに暮らしていた過去がある。犯行を否認し続けているやつにその頃のことを思い出させるように、うまく話を持っていくと、涙を流して自供を始めるというわけだ。まさに、人格が代わったという感じをうけるような変化が起こる」
「なるほど、我々刑事は昔から、人間というものは多重人格であるということを知っていたということになりますね」
「いや、そういう理論がわかっていたわけじゃない。経験則として活用していたということだろうな…」
「私もですね、天野さんの話を聞いていて思ったんですが、もし、すべての人間が多重人格であることを前提として考えれば、犯罪の防止というものも、もっと効果的な方法というものが見つかるんじゃないかと…」
「どういうことだい?」
「ほら、よくあるじゃないですか。人の心に関して、性善説だ、性悪説だという論争が…」
「ああ、それで?」
「この議論は、人の心というものが、一つのまとまりだという前提に立っているわけです。だから、白か黒かということになるのじゃないですかね…」
「なるほど。複数の人格の乗合バスのようなものだと思えば、そんな白か黒かというような話にならないってことだな」
「ええ、問題はその乗合バスを誰が運転するかということになります。交通ルールを守って、乗客の安全にも配慮する人格なら問題ないのですが、スピード違反や無理な追い越し、一方通行無視をやらかす人格が運転していたら、たまったもんじゃありません」
「そういうやつが、運転席に座らないようにするってことだな。北さんの言いたいことは…」
「課長が乗合バスなんてうまい例えを思いついてくれたんで、説明がしやすくなりました。実際、人格がスイッチするということは、運転を代わるということをいうんじゃないでしょうか」
「そう言えば、ハンドルを握ると人が変るやつがいると昔から言っていたな。あれは、本当に、『代わる』ということだったのかも知れないな。それに、下半身は別人格なんて言葉もあるな」
「なるほどね。こうしてみると、人格のスイッチっていうのは、日常的なこととも言えますね」
「ああ、そうだな」
 岡田は深く頷いた。
「ところで、課長、私、もう少しこのヤマのことを調べてみたいと思うんですがいいでしょうか? まあ、後は本庁に任せておけばうちは免責なんでしょうが…」
「北さん、何か引っかかることでもあるのかい?」
「ええ、一つ気になることがあるのです。それは、笠原令司のことなのですがね」
「俺もこの前会って話をしたけど、まじめな医師って感じで、おかしなところはなかったと思うがな」
「最初に会ったときなのですよ。守秘義務なんて自分から言い出したわりに、山野晃子のことを詳しく話しすぎという印象を受けたのです」
「それは、あの対決治療のことで自責の念があったからじゃないのか」
「確かに、辻褄は合うんですが、どうもしっくりこないのですよ…」
「まあ、いい。北さんの気の済むようにやったらいい。ただし、裏付け捜査の一環ということでな。そこんところは抑えておいてくれ」
「それで結構です」

   3

 その夜、北島は柴田から、「夕飯しませんか」と誘われた。
 二人は、管轄内は避ける意味で、市ヶ谷にある囲碁の総本部、日本棋院の一階にある和食屋まで出かけた。
 柴田は、「ここはいつも空いているし、ブンヤさんは来ませんから」
 と言って、入り口の暖簾を潜った。
 確かに、柴田の言う通り、午後七時半という賑わうべき時間帯にも拘らず、客は疎らであった。二人は、小上がりになっている窓際の席に座った。
 注文が済むと、北島が訊ねた。
「何か、事件のことで、折り入って話でもあるのかい?」
「いや、そういう訳でもないのですが、捜査会議で話すことじゃないという気がして…」
「解離性同一性障害のことでか?」
「ええ」
 柴田が、頷いた時、空いているためか、早くも料理が運ばれてきた。
 店員が立ち去ると、
「北さんは、この前、桜井から、虚偽記憶について話を聞いたと思うんですが…」
 と話し始めた。
「ああ、創られた記憶ということだったな。カウンセリング中というか、治療中に誘導されてしまうということだった」
「その後、私も桜井から話を聞きました。それで、思いついたというか、思い出したことがありまして…」
「どんなことだい?」
「一つは、テレビで見た多重人格者を取材したドキュメンタリー番組です。そして、もう一つは神戸の酒鬼薔薇事件です…」
 柴田は、北島は見ていない、「多重人格者A子の真実」という番組について、概略を話した。
 そのドキュメンタリー番組は、JBCイレブンに、今回の事件のコメンテーターとして登場している、精神科医の前沢卓治の患者を追ったものであった。当然、ナビゲータとして前沢医師が登場している。
「その十七歳の少女は、様々な人間関係の軋轢によって、十人ほどの人格を持つようになるわけですが…」
「君は、本物だと…」
「ええ、私はそう思います。ただ、多くの人は信じないでしょうね」
 柴田が説明するには、幼児から、三十代まで、男性を含めて様々な交代人格が映し出されるという。しかし、それは、下手くそな一人芝居を見ているようだというのである。
「それでも、君は信じるというのか?」
「ええ。確かに、彼女が私達に見せる人格は、稚拙なものばかりです。彼女は幼児だったことはあるわけですが、三十代の女性だったことはないし、ましてや男性だったことなどありえません」
「ということは…」
「そうです。彼女の交代人格は、今の言葉で言えば、バーチャルな記憶というものに支えられているのだと思います」
「本や映画。テレビドラマでの知識ということか」
 北島は大きく頷いた。
「それで、その映画なのですが、非番の日にぼんやり見ていたテレビの映画がですね…」
 柴田はその映画の概略を話した。
 任務として暗殺をも行う女性工作員が記憶を失くして、かなりの年月平凡な主婦としての生活をしている。ある日、テレビのニュース映像を昔の関係者が見てしまい、彼女と家族の命が狙われることになる。
「勿論、その映画は人間の心がどうのこうのということをテーマにしているわけではありません。しかし、非情なスパイとしての人格はその時代の記憶により支配され、優しい母親としての人格は、そのような平凡な家庭生活という記憶により出現しているわけです」
「なるほど、俺達は、そのような前提を無理なく受けて入れているだろうな…」
「それで、ドキュメンタリーとその映画の比較なんですが、逆転していると思うのです」
「逆転?」
「ドキュメンタリーは、バーチャルな記憶に基づいた多重人格のリアルな話。そして、映画は、リアルな記憶に基づいた多重人格のバーチャルな話ということになりませんか?」
「なるほどね。ドキュメンタリーの場合は、実体験の記憶に基づいていないから、嘘っぽいし、映画の場合は、話自体はフィクションなのに、主人公が何年も実体験を持っているという前提があるから、ありそうだという実感が持てるということだな」
 と腕を組みながらそう言って、北島は食事が進んでいないことに気付いた。柴田もそれに気付き、二人は暫らくは食事に専念することにした。十分ほどして、食事はあらかた片付いた。
「酒鬼薔薇事件に関しても、何か話があるということだったよな」
 と北島が水を向けると、
「あの猟奇殺人事件の時、犯人が中学生だったことに、犯罪学の専門家も驚いたということは覚えていると思いますが…」
 柴田はそう言って、北島の反応を確認した。
「ああ、善悪の区別がつかず、衝動的に殺人を犯す場合は、かなり年齢が低い例もあるが、猟奇殺人としては、世界的にも稀なケースだということだった」
「そうです。アメリカなどの例でも、小動物の虐待や虐殺という行為が、人間に向けられるのに少なくとも七・八年かかるのが常識だと言われていました。ところが、酒鬼薔薇事件の場合は、二年足らずだということです」
「確か、そんなものかも知れない」
「その理由として、ある専門家は、雑誌・本・ビデオによる疑似体験がその期間を短縮させた要因だと主張していました。私は、かなりの確率でこの説は正しいと思います」
 北島は、二度三度頷いて、
「要するに、人格の裏付けとしての記憶は、必ずしも実体験である必要はないということか…」
 と噛み締めるように言った。

   4

 笠原令司を調べる許可を課長からもらった直後、北島は帝都大学病院の精神科に勤務しているという女性から電話をもらった。それは、研修医をしている染谷百合子で、会って、話がしたいという。北島が翌日、医局を訪ねてみると、その女性は人目をはばかるように、北島を一室に招きいれた。
「私、この医局の研修生の染谷と申します。先日、北島さんがこちらにいらした時に、私、まだここに残っておりまして、天野先生の部屋からお二人の話し声が漏れ聞こえたものですから…」
 染谷百合子はどちらかというと童顔で、研修医と名乗らなければ、二十歳そこそこに見える。立ち聞きしてしまったことを詫びる気持ちが表情に表れていて、北島は好感を持った。
「そうですか。聞いてしまった内容は?」
「いえ、まとまった話としては…。ただ、新宿若葉町で起きた殺人事件に関しての話ということは見当がつきました。昨日、出張中の天野先生の部屋を掃除していますと、机の上に北島さんの名刺がありましたので、ご連絡させていただきました」
 物腰からは控えめな性格と思える染谷百合子が、警察にあえて連絡してくるということはよくよくのことだろうと北島は思った。
「何か重大なことをご存知なのですね?」
「ええ。その前に、お聞きしますが、あの事件の容疑者の方の主治医なんですけど、笠原先生だと思うのですが、違いますか?」
「本当は口外してはいけないのですが…。こちらでは皆さんご存知のようですから申し上げます。笠原メンタルクリニックの笠原令司さんです。それが何か?」
「実は…」
「実は?」
「実は、笠原先生自身が解離性同一性障害だという話ご存知ですか?」
 何度か躊躇してから、百合子はそう言った。
「なんですって。それは本当ですか? しかし、天野先生は何も…」
「天野先生は知らないと思います。私の先輩で、以前、笠原先生と付き合っていた女性から聞いた話です。名前は清水あけみさんと言います」
「ちょっと待ってください。笠原令司さんには妻子がいますよね?」
「ええ、言いたくない言葉ですが、不倫の関係でした。実は、あけみさんは秘密の恋人という言い方をしていまして、笠原令司さんという名前は言いませんでした」
「言いませんでした、と言うと…」
「そうです。四ヶ月ほど前に…」
「亡くなったんですか?」
「ええ、亡くなりました…」
「どのような亡くなり方をしたのですか?」
「服毒自殺です…」
 百合子は悲しそうに俯いて、呟くような声で言った。
「確かに自殺なのですか?」
「亡くなる前の二ヶ月ほど、かなりの鬱状態だったことは回りの方々も気づいていましたし、遺書もありました。それに、他殺を疑わせる状況がなかったということです」
「そうですか。自殺ですか…。それで、話は戻りますが、その秘密の恋人が笠原令司であることはどうしてわかるのですか?」
「実は、あの事件が起こる直前まで、私には秘密の恋人が誰であるかわかりませんでした。しかし、ある人から聞いた笠原先生のエピソードが、あけみさんの話と符合していることに気付きました」
「どんな話ですか?」
「海外でのちょっとした失敗談です。それが彼女の話と時期的に一致していたんです。それで、他のことについて、調べてみたわけです。誕生日、血液型、自動車の車種…。実は、それらのことは、会って話したり、電話で話したりしたのではなく、eメールでのやり取りでしたから、曖昧な記憶とは違って、データで残っていることなんです」
「なるほど。いわゆるメルトモですか」
「ええ。二人とも不規則な生活でしたし…」
「その彼が、解離性同一性障害であることについて、その清水あけみさんはどのように言っていたのですか」
「お話したように、亡くなる二ヶ月前まで、私たち二日に一回くらいのペースでメールの交換をしていました。ところが、最後の一月ほど、彼、つまり笠原さんの様子がおかしいという話題が何度かあり、最後の頃は、彼が解離性同一性障害ではないかと思うと言ってきたのです」
「どんな根拠で、清水さんはそうだと考えたのでしょうか?」
「やはり、解離性健忘が見うけられたのだと思います。人格のスイッチングも目撃したようです。それで、その交代人格がサイコパス、つまり、平気で犯罪を犯すタイプの人格だと言うんです」
「サイコパスですか…」
「それで、ついにメールが送れなくなって…」
「送れない、とはどういうことですか?」
「あけみさんがメールを解約したのだと思います。配達不能というメッセージが返ってきましたから…」
 清水あけみは身の危険を感じると同時に、メールのやり取りをしている染谷百合子を巻き込んではいけないと考えたのかも知れない。それまで、漠然と抱いていた笠原に対する感情が、北島の中で疑惑という明確な形を採り始めた。

   5

 北島が染谷百合子から、笠原令司が解離性同一性障害であるというショッキングな事実を知らされていた頃、山本と桜井の二人は神田神保町にある「ドリームス」という店に来ていた。
 そのドリームスという店はマンガ喫茶とインターネットカフェが併設されている。春休みの時期の午前中ではあったが、パソコン十台のうち、六台が使用されていた。マンガ閲覧の席も三十席のうち、三割ほどが埋まっている。学生街ならではの繁盛振りであった。
 一般的には、インターネットカフェでは、Eメールが自由に使えるようにはなっていないが、そのドリームスでは何台かは使用できるように設定されていた。JBCへはそのパソコンからであった。
 しかし、聞き込みは空振りであった。店の人間もインターネット利用客が何をしているのかまで監視しているはずはない。
 北島は、染谷百合子と別れてすぐに、山本たちのことを思い出した。北島は山本に携帯電話をかけた。
『ああ、山本か。北島だが、今どこだ?』
『北島さんですか。自分たちは今、水道橋です。残念ながら、ドリームスでは何の手がかりも得られませんでしたので、署に戻るところです』
『悪いが、もう一度ドリームスに戻ってくれ。俺もそっちに行くから…』
『どういうことですか?』
『いや、そのタレコミは笠原令司本人じゃないかと思ってな。それを確かめたいんだ』
『確かに山野晃子は婚約者にも話してなかったわけですから、笠原クリニック周辺から情報が漏れているとは思っていましたが、本人がですか。しかし、何か根拠でも?』
『ああ、さっき、笠原に関して、新しい事実を聞き込んだ。詳しくは後だ』
『わかりました。先に行って待ってます』
 そんなやり取りをして、北島はタクシーを拾った。帝都大学は文京区にあり、神田神保町までは混んでなければ、十分程度である。しかし、昼時にかかっていて、二十分以上かかってしまった。
 北島がドリームスに到着すると、山本が北島に近づいてきて、耳元で囁いた。
「やはり、笠原令司でした。店長が確認してくれました」
「えっ、どうしてわかったんだ?」
 笠原令司の写真など、四ツ谷南署にないはずである。
「ホームページですよ。笠原メンタルクリニックの…」
 桜井まゆみがそう言って笑った。
「流石に、例のメールを送ったのが笠原令司だとは言い切れませんが、少なくとも、その時間帯にこの店に笠原令司がいたことは確実です。そうですね、店長」
 そう確認されて、学生と区別がつかないほど若い店長が答えた。
「ええ、さっきのホームページの人に間違いありません。もしかすると、履歴が残っているかも知れませんね」
 店長は、マウスを手にして、ホームページを開いた。
「ああ、履歴ね。そうか、まだ何日も経っていませんからね」
 山本が指を鳴らしてそう言った。
 北島には、店長と山本の言っている意味がわからなかった。その様子を見ていて、桜井まゆみがインターネットの仕組みを説明してくれた。最近見たページをまた見たくなる時のために、見たページが日誌のように記録されているのである。それを履歴と言っている。
 山本が、笠原が使ったパソコンのインターネット利用の履歴を確認すると、確かに、三月二十九日土曜日に、JBCのホームページを見ていたことが確認できた。メールはそのホームページ経由で送られたのである。
「割とマメに履歴をクリアしているんですが、ここのところサボっていまして…」
 店長は頭を掻きながらそう言った。
「いや、そのお陰で、貴重な証拠が掴めました。ところで、誰かと一緒にきていたということはありませんか?」
「そうですねぇ、一人だったと思います。ここで待ち合わせしていたということなら、ちょっと分かりませんが、少なくとも、入店の時は一人でした」
 北島の質問に店長はそう答えた。
「あの、こちらの営業上、何か問題になるのでしょうか。書類の提出が必要だとか…」
 若い店長は、利用者が何らかの犯罪に関わっていたことを気にしていた。
「いえ、そんなことはありません。ご協力いただいて感謝しています。また、何かありましたら、ご連絡いただければありがたいと思います」
「何か、というと?」
「例えば、先ほどの医者が、再び立ち寄ったりしたらですが…。まあ、そういうことはないと思いますが…」
「わかりました。ご連絡します」
「それから、そちらに落ち度はないとはいえ、あまり口外しないでいただきたいと思います」
「勿論です」
いくつか細かい点の確認が済むと、三人はドリームスを後にした。道を歩き始めると、すぐに山本が北島に尋ねた。
「北さん、どういうことなんでしょうね。笠原は何が目的でこんなことをしたんですかね…。どんな得があるっていうんですかね」
「そもそも、北島さんは、何故、笠原令司じゃないかと思ったんですか?」
 桜井もそう尋ねた。
「実はさっき、とんでもない事実、いやまだ可能性だな、それがわかったんだ…」
「何ですかそれは?」
「俺もかなり混乱しているんで、頭の中を整理したいんだ。署に戻って、皆に集まってもらってから話すよ。今は勘弁してくれ…」
 その後、三人はほとんど口をきかず、署に戻った。

   6

 午後一時過ぎに署に戻ると、柴田と宮本が帰るまでに三十分かかるという。北島たちは、カップめんで昼食を済まして、二人の帰りを待った。
「よっしゃ、捜査会議じゃ」
 柴田と宮本が帰ると岡田が号令をかけた。
「知っての通り、このヤマは本庁の扱いになった。容疑者は一般的に言えば、真っ黒。しかし、わけのわからん解離性同一性障害とかで、起訴や裁判の維持ができるかが問題になっている。うちの方でやるべきことは、付帯的な捜査ということだったんだが、今日、北さんがトンでもないネタを仕入れてきた。容疑者の主治医だった笠原令司自身が解離性同一性障害だというやつだ…」
 スタッフにどよめきが起こった。
「それじゃ、北さん。詳しく話してくれ」
 北島はそう促されて、染谷百合子から聞いてきた話をした。
「それじゃ、北島さんは、その清水あけみは笠原令司に殺されたと考えているんですか?」
 一通りの話が終わって、宮本が尋ねた。
「ああ、その可能性があるということだ。精神科医である笠原なら、投薬によって、人工的な鬱状態を作り出すこともできる。催眠術を使って、暗示にかけて自殺させることもできる。そう考えると、清水あけみは笠原令司に殺されたのかも知れない。それも、笠原令司のホスト人格ではなく、交代人格の一人に…」
 暫く沈黙があった。
「まさか、住田殺害にもその笠原令司の交代人格がかかわっているなんてことはないですよね」
 山本が恐る恐る発言した。
「もし、清水あけみの場合が催眠暗示による殺害だったとしたら、ないとは言えない。いや、可能性が高いと思う」
「多重人格者が、別の多重人格者を操って起した殺人事件だということですか…。もし、そうだとしたら、とても裁判が維持できるとは思えません」
 宮本が首を横に振りながら言った。
「北さん、動機の点はどう考えたらいいんですか?」
 柴田が訊ねた。
「そうだな。清水あけみの場合もはっきりしないんだが、医師である笠原自身が解離性同一性障害であるという秘密を守りたかったというふうに考えれば、一応動機は成立する。しかし、笠原が住田を殺す理由となると見当がつかない…」
「あの、いいですか?」
 桜井まゆみが発言を求めた。
「そもそも、笠原がそのようなサイコパス的な人間だとしたら、山野晃子が解離性同一性障害であるというところから疑ってかかる必要があるんじゃないでしょうか?」
 皆の顔に驚きの色が走った。
「それこそ、彼女が解離性同一性障害だと言っているのは笠原だけなのですから…」
 桜井まゆみは続けた。
「しかし、あの謎の女剣士、中野キョウコはどうなるのだ。山野晃子の別人格の行動だったのじゃないのかな」
 宮本が言った。
「いや、俺もちらっと疑念を抱いたことがある。山野晃子が少女の頃、住田から性的ないたずらをされて、それがトラウマとなって、解離性同一性障害になったというストーリーも笠原が言っているだけだ。事実だったかどうかは誰もわからない」
 要するに、山野晃子が元々、解離性同一性障害だったのか、笠原によって創られた解離性同一性障害なのかは今の時点ではわからないということである。
「全く、なんというヤマだ」
 それまで、黙って皆の意見を聞いていた岡田が溜息をつきながら言った。
「さて、どうしたものか…。北さん、その清水あけみだっけ、自殺したその娘はさいたま市に住んでいたという話だったよな」
「ええ、元の浦和市になりますが…」
「そうか。浦和・与野・大宮の巨大合併だったよな。それはともかくとして、その事件を洗い直すとすると、埼玉県警と話をつけなきゃならないな…。いや、その前に本庁、そのまた前にうちの署長だな…」
 岡田はうなってしまった。
 岡田と北島は、新たに判明したことを署長と副署長に報告し、四者による協議が行われた。結論としては、本庁にすべて話して、指示を仰ぐというものであった。報告の前に、署長と副署長が気にしたのは、このような事態になったのは、四ツ谷南署の捜査上の不手際ではなかったかということであった。岡田としては、最善とは言わないまでも、前代未聞のヤマの割には、かなり高い水準の捜査だったと主張した。
「わかった。こちらには抜かりはなかった、ということだね。それでは、明日、私と岡田君が本庁に出向いて、新しく判明した笠原令司に関する事実を報告する、ということでいいね」
 署長がそう総括して、他のメンバーが頷いた。

   7

 その翌日、四月六日日曜日、事態は急転した。笠原令司が失踪したのである。
「ドジ踏んじまったな…」
「すいませんでした」
 岡田がぼやいて、北島が謝った。
「いや、俺の責任だ。すっかり本庁に投げたつもりになっちまった。それにしても、笠原が気づいているとは思わなかったな」
「ええ、どうしてですかね…」
「あの、いいですか?」
 山本が口を挟んだ。
「なんだい。心当たりでもあるのか?」
「もしかしたら、インターネットが原因じゃないでしょうか?」
「なに、インターネットだ?」
 岡田には何のことかわからなかったが、北島は昨日のことを思い出した。
「あの履歴のことか?」
 北島が気づいた。
「ええ、自分たちはあそこの店長に笠原の顔を確認してもらうために笠原メンタルクリニックのホームページにアクセスしました。ですから、履歴に残ったわけです。それを笠原が見たとしたら…」
「いや、それはないと思う。俺だったら、あそこには二度と顔を出さない」
 北島がそう言うと、山本も頷くしかなかった。
「こういうことはあるんじゃないですか」
 今度は桜井まゆみが考えを述べた。
「私たちが帰った後にあのパソコンを使った誰かが、おそらく学生でしょうが、履歴を見て、笠原メンタルクリニックのホームページにアクセスした。そして、いたずら半分で、メールを送った。それで、笠原は危険が迫っていることに気づいた…」
「それは、十分ある。そうだ、それに違いない」
「おい、俺にわかるように話せ」
 桜井と山本だけが合点しているのに腹をたてて、岡田が言った。
「はい、わかりました。インターネットのホームページを見るとですね…」
 山本が実際にインターネットの画面を見せながら、数分を費やして、岡田に履歴、そして、お気に入りといういうシステムがあることを説明した。
「なるほど、履歴とお気に入りか。インターネットはそういう仕組みになっているのか。確かに、その度に、ここに、あの長いアルファベットの羅列を打ち込むのは骨だもんな」
 岡田はようやく理解したようだった。
「さて、それで、どうするかだ」
 岡田は腕を組んで考え込んだ。
「課長。どちらにしても、本庁にこの間のこちらの動きを報告するしかないんじゃないですか」
 山本にそう言われて、岡田は北島の考えを確かめるように、北島を見つめた。そして、北島が頷くと、意を決したように言った。
「しかたないな。よし、署長と行ってこよう。何か決まったら、すぐに連絡する」
 岡田は、必要書類を脇に抱えて、署長のところへと出かけて行った。

「ちょっと、整理してみようじゃないか。情報の共有化も必要だしな。まず、この事件の始まりからだ」
 刑事課室は暫らく沈黙が支配したが、北島が課員の顔を見回して、言った。
「まず、事件が起きたのが、三月十七日月曜日午後八時前後、新宿区若葉町二丁目十一番地のオフィスビルの二階。被害者は住所不定無職、住田忠明四十八歳、木刀による撲殺。第一発見者はそのビルの警備員、午後十時の定時巡回の時だ。目撃証言から、翌十八日午前一時半には、謎の女の存在が明らかになった…」
 北島は、話しながら、ホワイトボードに時系列に出来事を並べていった。
 三月二十日木曜日には、山野晃子が容疑者として浮かび、事情聴取が行われ、その途中で凶器に付着した指紋・掌紋が本人と一致することが判明した。ところが、その直後に山野晃子は意識を失い、婚約者の宮脇康夫からの事情聴取まで、捜査は中断を余儀なくされた。
 三月二十二日土曜日、山野晃子の婚約者である宮脇康夫が帰京し、事情聴取が行われ、そこで、容疑者が殺害された住田から継続的に金銭を無心されていたこと、さらに、笠原メンタルクリニックに通院していることが判明した。
 三月二十四日月曜日、中野東署の今泉から、謎の女剣士の情報がもたらされた。中野キョウコと名乗る女性が、この九ヶ月ほど、中野の剣道場に出没していたというものであった。
 三月二十六日水曜日、笠原令司からの事情聴取が行われ、容疑者の山野晃子が解離性同一性障害の治療を受けていたことが判明した。
 三月二十八日金曜日、JBCイレブンが謎の女剣士が容疑者として、捜査線上に浮かんできたことをスクープとして報道した。
 三月二十九日土曜日、同じくJBCイレブンがその女性が解離性同一性障害の可能性があることを、連夜のスクープとして報道した。
 三月三十日日曜日、山野晃子に対して逮捕状が執行された。同日、JBCテレビ記者の佐藤から、解離性同一性障害のタレコミは電子メールで神田のインターネットカフェから送信されたことが判明した。
 四月五日土曜日、帝都大学病院の研修医染谷百合子から、笠原令司自身が解離性同一性障害の可能性があるという情報がもたらされた。同日、神田のインターネットカフェの聞き込みで、笠原令司がタレコミの本人であることが判明した。
 四月六日日曜日、笠原令司の所在が不明となった。
「以上が、ここまでの経緯だが、皆分担して捜査していたので、詳しい情報はそれぞれが持っているわけだ。何か質問があれば、言ってくれ」
 北島はそう言って、皆の顔を見渡した。
「あの、犯行直後の容疑者の足取りなんですが…」
 山本が口火を切った。
「若葉町二丁目から三丁目を抜けて、JRのガードをくぐり、みなみもと町公園を回るように左折して、公園と迎賓館の間の鮫ヶ原坂を通って四ツ谷駅方面に消えたということですよね」
「ああ、そうだが…」
 地どり捜査で、足取りを担当した宮本が答えた。
「えーと、地図で見ると、四ツ谷駅に向かうにはこんな回り道をしないで、反対側の新宿通りに出るのが近いんじゃないですかね」
 山本は、地図を広げながら疑問を投げかけた。
「俺もそう思う。しかし、事実は少なくともみなみもと町公園までは、容疑者らしき女性が目撃されているということだ。まあ、普通に考えれば、犯行直後に人通りの激しい大通りに出ることを躊躇したということじゃないかな。裏道だし、みなみもと町公園や鮫ヶ原坂は、暗くて、車はともかく、人通りは少ない。犯罪者の心理としては不思議じゃないと思うがな」
 宮本の説明を聞きながら、全員が、地図を覗き込むかたちになった。
 現場から出てすぐに、観音坂を下り、少しくねった道をほぼ南に六百メートルほどで、JRのガードまで到達する。
「そう言えば、この坂は観音坂というんだったな」
 北島は何か不思議な感覚を覚えた。
「この坂の脇に真成院四谷霊廟という寺がありまして、潮干観音という観音様が祀られているということです」
「潮干というと…」
「ええ、江戸以前は、四ツ谷の辺りは、入り江が食い込んでいたということです」
「そういうことなのか」
「ほら、あの目撃者を教えてくれたのがここの坊さんでした」
 柴田がさらに説明を加えた。
「何でも、江戸三十三観音の一つで、結構有名なんだそうですよ」
「なるほど、それで観音坂か…」
 北島は暫らく、考えていたが、我に返って言った。
「ああ、そうそう、足取りだったな。まあ、逃走経路の必然性には疑問が残るが、重大なことではないだろう。他に何かあるか」
 北島は足取りの話にケリを付けて、他の質問を促した。
 その後、それぞれの捜査内容について、詳細な説明と質疑が交わされて、一時間ほどが経過した。
「さて、これでかなり情報の共有化は行われたと思うが、これからどうするかは、課長が帰ってきてからだな。とりあえず、各自、凶器の木刀の出所など、まだ詰めなければいけない事項について調べを続けてくれ」
 北島がそう言い、課員はそれぞれの持ち場へ戻って行った。