第四章 十一面観音

   1

 笠原が失踪して、二日が経ったが、どこにいるのか皆目掴めないでいた。
 北島は、本庁の刑事と一緒に笠原の妻、純子を訪ねた。笠原はアメリカ留学から帰国した七年前、彼の卒業した大学病院の医局長の娘と結婚していた。子供はいない。
 笠原の自宅は、目白の学習院大学の近くにあった。「笠原の自宅」に関して、より正確に言えば、妻の父親から贈与され、夫婦共同名義になっている住宅である。家同様、白く塗られたパイプ状の金属の柵に囲われていて、庭はよく手入れされた芝生になっていた。
 白い扉を開けて、玄関を入ると、誰の趣味なのか、仏像が飾られていた。家や庭の雰囲気には合わないものであった。立像で、背丈は大人の半分ほどのものである。半眼で来訪者を迎えているかのようなその仏像は、一種妖艶な美しさを秘めていた。よく見ると、最初髪飾りと見えたものは、小さな多くの顔であることがわかった。北島は、何という名の仏像だったかと一瞬思ったが、出迎えた純子は、北島がその仏像を見つめていることに気づきながら、なんら説明をしようともせず、奥へと導いた。
 先入観もあるのであろうが、北島は純子の育ちのよさに驚いていた。アッシュブラウンに染められたセミロングの髪に大きなウエーブがかけられている。シンプルな、ほとんど白に近い淡いブルーのワンピースが似合っている。表情にしても、服装にしても、整然としていて、夫の失踪という状況にも拘らず、取り乱した様子もない。
 北島たちは、広い応接室に通された。そこには不思議な香りがほのかに漂っていた。笠原のクリニックに漂っていたラベンダーの香りでないことは北島にもわかったが、何の香りなのかはわからない。
 応接室には男が一人、先に来ていた。弁護士であった。笠原の失踪が判明してすぐに、純子の父が警察の事情聴取の際には、弁護士の同席を条件にするように指示したのである。
 笠原純子自身は、事態が全く飲み込めないという様子であった。
「仕事の性格上、夫は私に何も話してくれませんでしたから…。まして、関係を秘密にしていた女性のことなど…」
 純子は、清水あけみのことも山野晃子のことも知らないと言った。
「正直に申し上げれば、私には心を開いくれなかったというか…」
 純子がそう言うと、弁護士は慌てて、純子の発言を制止した。
「奥さん、そういうことは…」
 純子は頷いて、沈黙した。
 二人の結婚生活はどのようなものだったのであろうか。純子の様子では打ち解けた会話が少なかったであろうことは予想された。
「どちらに行かれているのか、心当たりはありませんか?」
 北島が訊ねた。
 事前に打ち合わせができていたのか、弁護士は頷いて、答えるように純子を促した。
「父の別荘など、こころあたりは探しましたが、おりませんでした。他には思いつくところはございません」
 純子はきっぱりと言った。
「そうですか。それでは、アルバムとか住所録とか、お借りできないでしょうか?」
 本庁の菊田刑事がそう訊いた。
 純子は弁護士の方へ視線を送った。
「それはお断りします。笠原令司さんは行方がわからなくなっていますが、逮捕状や捜索令状などはまだ出ていないはずです。違いますか?」
 弁護士が純子の代わりに答えた。
「ええ、おっしゃる通りです。これはお願いですから…」
 菊田は頭を下げながらそう言った。
「もう少し、状況が明らかになってからにしていただけませんか。奥さんの気持ちも考慮してください…」
 下手に出られて、弁護士も少し穏やかな口調で言い、菊田は北島の方へ視線を向けた。
「わかりました。今日はこれで失礼します。お邪魔しました」
 北島が頷くのを確認して菊田はそう言った。
 確かに、今の時点では、拒否されれば、強制的に捜査するといわけにはいかなかった。
 北島と菊田はしぶしぶ腰を上げて、辞去することにした。笠原純子は玄関まで二人を見送りにきた。
「この仏像は何という仏像でしょうか?」
 北島は菊田が靴を履いている間に訊ねた。
「これですか。十一面観音ですが」
 純子は無表情にそう答えた。
「ああ、そうでした。十一面観音でしたね。これは、奥さんの趣味ですか?」
「いえ、笠原がどこからか手に入れてきたものです」
「ほう、笠原令司さんにこのような趣味があったとは知りませんでした」
「私も存知ませんでしたわ」
 純子は、昂然とそう言った。しかし、すぐに自分の不遜な態度を恥じて、頭を下げた。
「いえ、失礼しました。趣味ということではないと思います」
「と言いますと?」
「これだけそこに置いて、他にはこのような仏像などのようなものは購入した様子はありませんでしたから…。クリニックではどうだったんでしょうか? クリニックにはいかれたと思いますが」
 純子は、途中から逆に北島に訊ねた。
「ええ、伺いましたが、仏像などはありませんでした。ですから、先ほどお訊ねしたわけです」
 純子は、両方の掌で反対の腕のひじの辺りを軽く握るようにして、黙って頷いた。
「北島さん、この仏像が何か手がかりになると思うんですか?」
 二人のやりとりを聞いていた菊田が訊ねた。
「いえ、そうではないんですが、何か妙に気になりまして…。まあ、今日はこれで失礼しましょう」
 北島はそう言って、菊田とともに笠原令司の自宅を後にした。

   2

 北島は、帝都大学の天野精一郎が笠原と個人的に親しいと話していたことを思い出した。帝都大学に連絡をとると、その日の午後には出張から戻るということがわかった。
 午後二時頃に、北島が天野を訪ねると、天野は外に出ることを提案した。
 帝都大学の医学部の門を入ると、左手に林が広がっている。その中に池があった。
「この池は一般にこころ池と呼ばれています」
 水面を見つめながら、天野が言った。
「こころ池ですか…」
「まあ、大学は学問の府ですから、思考に疲れたこころを休めるということなんでしょう。しかし、不思議なことに、見る人のこころを映すというのでしょうか、元気な時は水面が輝いて見え、落ち込んでいる時は、沈んだ色合いに感じられるそうです」
 確かに、この池に限らず、湖や池などの水面は人を感傷的な気分にさせると北島は思った。
「今、先生にはどう見えていますか?」
「私ですか? そうですね、深い緑色に感じられると言ったところでしょうか…」
 そう言って、北島の方へ向き直った。
「深い緑色ですか…」
 やはり、笠原のことが気がかりなのだろうか、と北島は思った。
「本題に入りますが、電話でお話しましたように、笠原令司さんの行方がわからなくなっています。先生が親しくしていらしたので、あるいは行き先のヒントでも得られるかと思いまして…」
「さあ、どうでしょうか?」
 天野は首を捻った。
「笠原さんと話したことを思い出していただきたいのです。どこか、笠原さんの心に残っている場所とか、そのような話をしたことは…」
「アメリカでは確かに色んな話をしました。しかし、ここだというところは…」
 天野は再び水面に視線を移した。
「そうですか…。ところで、笠原令司さん本人が解離性同一性障害だったという話は聞いたことがありますか」
 北島は、思い切って、この話をぶつけてみた。天野は応えなかった。
「知っていらしたのですね」
 北島にそう言われて、天野は水面を見つめながら、小さく頷いた。
「いつ頃からですか。それに気づいたのは?」
「アメリカ留学時代ですから、八年前でしょうか…。それから…。笠原の場合、一概に解離性同一性障害だとも言えない面がありまして…。解離しているとも、いないとも…」
「解離しているとも、いないとも?」
 北島は自分の思考にストップをかけられてしまったように感じた。
「それは、どういう意味ですか?」
 わずかに間をおいて、北島は訊ねた。
「北島さんは、この事件で解離性同一性障害、あるいは多重人格ということについて詳しくなったと思います。それに、私の非解離性多重人格理論についてもご存知ですから、おわかりになると思いますが…」
 天野は前回とは違う例えで説明を始めた。
 人の心と体を多くの人が乗車しているバスと考えると、多重人格の説明はわかりやすくなる。つまり、運転手がホストの人格で、乗客は交代人格ということになる。バスの場合、運転手も乗客もバスの動きを感じ、そして外の景色を同じようにみることができる。もちろん、乗客の中には、本を読んでいて、外の景色を見ていないものもいる。
 運転手は、前を見て、バックミラーを見て、計器類を確認してバスを運転する。スピードの上げ下げ、右折左折、停車なども運転手次第である。つまり、視覚や聴覚などの感覚と運動機能を支配しているということである。
 ところが、乗客の中には、「前の車を追い越せ」とか、「海が見たいから、右に曲がれ」とか勝手なことを主張するものもいる。運転手にはその言葉が聞こえる。それを採用するかどうかは運転手の判断である。
「確かに、大部屋の説明よりわかりやすいですね。たまたま、刑事課内でも、そんなたとえ話になりまして…」
「ええ、実際の行動と交代人格との関係が説明できますからね」
「このバスの例えですと、解離性同一性障害はどういうことになるんですか?」
「解離性同一性障害は、例えば、こういうことです。運転手が休みをとって、後ろの席で眠っている最中に、乗客の一人がバスを運転してしまうようなものです。運転手が目をさますと、自分が停車した場所ではなく、知らないところにいる。しかも、バスのあちらこちらに追突した傷跡がある。運転手は乗客は運転しないと思っているので、大きなショックを受ける…」
「なるほど、健常者の場合は、乗客は勝手なことを言うけれど、運転を代わるということはないわけですね」
「そうです。アイデンティティ、つまり同一性というものはこのような前提で保たれているわけです」
「それで、笠原さんの場合はどうなんですか?」
「笠原の場合はですね、複数いるというか。つまり、複数の人格、八年前は主に三人でしたが、その三人が三人とも目覚めている中で、運転の交代が起こるのです」
「解離性健忘ということがない、ということですか?」
「そういうことになります。完全にとは言えないまでも、誰が主体かに拘らず、行動に関する記憶はほぼ共有されていると思います」
 解離性健忘の症状がないということであれば、笠原の愛人であった清水あけみから染谷百合子が聞いた話と食い違うことになる。
「笠原さんの複数の人格の中に、冷酷な人格がいるのでは?」
「さあ、どうでしょうか。人格というものは、天使と悪魔というように、そう簡単には色分けできるものではないと思います。事実、八年前、私は笠原の表に出てくる三人の人格とそれぞれ友情を持って付き合っていましたから…」
「もしかして、先生の非解離性多重人格理論は、笠原さんがヒントになったのでは?」
「ええ、その通りです。笠原との付き合いの中で、人の心の構造は人格の多重性を前提に考えるべきだと思うようになりました。解離ということが起こり、人格のスイッチングが頻繁に起こるようになると、同一性障害ということになります。しかし、解離していなければ、同一性という意味では障害ではないわけです。ですから、非解離性同一性障害ではなく、非解離性多重人格なのです…」
 笠原令司の場合、なんらかのきっかけで、三人の独立した人格が形成されたことになる。多重人格状態が出現する過程で、解離ということはあったのかも知れないが、天野が気付いた八年前には解離は起こっていなかった。つまり、ある人格の行動のことを他の人格も覚えているという状態だったのである。少なくとも八年前はそうだった。それから数年を経て、清水あけみが自殺した時点ではどうであったか、それが今回の事件を解く鍵ではないかと北島は思った。

   3

 若葉町二丁目の殺人事件の場合、現場ですぐに被害者住田忠明の身元が判明し、さらに二日後には被疑者山野晃子が特定された。被害者と被疑者の関係もすぐに判明し、犯行方法に疑問が残ったが、犯行の動機も単純な怨恨によるものと推測された。ここまでは、極めて単純な構造の事件であり、捜査本部さえ設置されないほどであった。
 ところが、山野晃子が解離性同一性障害であることが判明したところから、捜査はあらぬ方向へと迷走を始める。捜査の内容は、晃子が解離性同一性障害であることの証拠を探すことになる。そして、その証拠は次々に発見されていく。その方向で捜査が行われている矢先に、今度は晃子の主治医笠原令司がマスコミに対して、解離性同一性障害をリークしたことが判明する。同時に、笠原自身が解離性同一性障害である疑いも浮上する。そして、笠原が失踪し、半年前の清水あけみの自殺にも疑念が生まれる。
 北島は、事件を最初から考えてみることにした。そうすると、殺人の動機について、何もわかっていないことに気付いた。
「確かに、北さんの言う通りだ。俺達は、最初から住田と山野晃子、この二人の間の確執が動機だとして、捜査をしてきた。しかし、そう単純なものじゃないようだ。北さんと柴田の二人は住田について洗いなおしてくれ」
 岡田は北島の進言を受け入れ、二人に指示を出した。
 北島と柴田は、住田の交友関係について再び事情聴取を行うことにした。柴田は、初動捜査の時も住田の交友関係をあたったので、効率よく捜査は進んだ。
「北さん、実は私も反省しているんです。あの時は、住田が山野晃子のブティックに出入りしていたことがすぐにわかって、山野晃子との関りだけを訊き込んでしまいましたから…」
「あの時はしょうがなかったな。凶器に付着した指紋も晃子のものと特定されたわけだから…」
「やはり、予断があると、視野が狭くなるものですね。いい教訓でした」
「俺も同様だよ。何年、デカをやってもこれだからな…」
 二人は、失敗を取り返す意気込みで、小走りで移動するほどの捜査を続けた。
 住田忠明は、福岡県北九州市に生まれた。日本の高度経済成長が始まった頃である。父親は、地場産業である鉄鋼関係の企業に勤めるサラリーマンで、下に三歳違いの弟がいる。地元の高校を卒業すると、東京の私立大学に進学した。卒業して、九州に戻り、父親と同様に大手鉄鋼会社の関連会社に就職している。しかし、二年も経たないで、会社をやめ、東京に舞い戻ってきた。学生時代に身についてしまった、酒と女と博打の生活が忘れられなかったのである。
 山野晃子の母朋子とは、新宿のスナックでバーテンダーをしている時に知り合った。五歳年上の朋子は、当時、すでに初台にブティックを出していた。いわゆる安定成長などと言われた時代で、高度経済成長時代のようではなかったが、それなりに日本経済は回っていた。
 朋子は、店を閉めて、娘が眠りに着いた深夜になると、ちょっと一杯やりに外出するという生活をしていた。何とはなく、人恋しいということだったと思われる。
 その後、暫らくしてから、住居として代々木上原にマンションを購入したのであるが、当時は、ブティックの二階に朋子は住んでいた。そこに、住田は転がり込んできたのである。当時は、朋子は一人でブティックを経営していて、詳しい事情を知る者は見つからなかった。三年ほどで、住田は朋子に追い出されるようにして、出て行った。ちょうど、二十年前のことである。
 住田は、その直後の二年ほどは関西でも暮らしたことがあるようだが、基本的には、東京とその近辺の繁華街で水商売に関係して生きてきた。
「何て言うか、多少、自虐的な酒の飲み方をしていた時期があったかな…」
 三十代後半から四十代前半くらいまで付き合いのあった男が、住田についてそんな話をしていた。恐喝で、掴まってからだと思われたが、その男によると、
「いや、恐喝している最中というか、何て言うか、恐喝している自分がいやになって、酒を呷っているという感じかな」と言うのである。
 その時は、執行猶予が付いたが、二回目には一年半の実刑判決を受けた。その後も、悪に徹しきれないで、犯罪まがいのことをやっては、酒に逃げていたようであった。
「言ってみれば、住田の中の色々な人格の間で葛藤があったということですかね」
 と柴田が言い、北島が頷いた。
 肝心の事件に直接関係する住田の動きについても、いくつか新しい事実が判明した。住田は山野晃子に付きまとっていて、どうも、晃子が中野の剣道場に通っていることに気付いたようである。さらに、晃子が笠原令司のクリニックに通い、何かの治療を受けていることも突き止めた。それが、解離性同一性障害であることは知らなかったと思われる。しかし、それ以上に、笠原が不倫をしていることを突き止めたことの方が、金に繋がる収穫であった。
 住田は、例の如く、恐喝する際に自己嫌悪に陥り、それをごまかす為に酒を呷った。その際に、周りの人間にそれらしきことを漏らしていた。
「住田と笠原が繋がりましたね」と柴田が北島に言った。
「おそらく、住田は笠原の家族についても調べたに違いない。あるいは、笠原の不倫以外のネタも仕入れたかも知れない…」
「違うネタですか? どんなネタですか?」
「さあ、それはわからないが…」
 二人の捜査がそこまで行き着いたとき、すでに時刻は日付も改まって、午前一時になっていた。疲れ果てて、署に戻ると、岡田が椅子に座ったまま転寝していた。
「ああ、お疲れさん」と岡田は欠伸をしながら言った。
「どうも、住田は笠原令司の弱みを握っていたようですね」
 北島は、新しくわかったことを掻い摘んで報告した。
「そうか。住田は、笠原についても調べていたのか。そうすると、その動機から、笠原が山野晃子を誘導して、殺害させたというストーリーが成り立つわけだ。もし、山野晃子が解離性同一性障害であることをリークしたことがばれなければ、そして、笠原自身が解離性同一性障害であることが判明しなければ、事件は、山野晃子の別人格の犯行ということで終わっていたかも知れないな」と岡田が言うと、
「笠原としては、住田殺害が山野晃子による、幼児の頃の性的虐待に対する恨みからの犯行ということで、早く決着して欲しかったのだと思います」と柴田も同調した。
 しかし、北島はまだ何か裏があると感じていた。

   4

 中野東署の今泉から、JBCイレブンのスタッフが笠原令司の失踪をかぎつけたらしいという知らせを受けて、北島は署長の苦悩の表情を思い浮かべた。
 一瞬の油断で、事件の鍵を握る笠原令司に逃げられてしまったことは大きな失態である。そもそも、笠原に関する捜査は、本庁の指示によるものではなく、四ツ谷南署独自の判断によるもであった。いや、署長は知らされていなかったわけであるから、刑事課内での判断によるものであった。それがむしろ署長の立場を悪くしていた。管理監督ができていないということになるからである。笠原令司が捜査対象になっていることを署長が把握していたとしたら、今回の失踪は相手が上手だったということで、情状酌量の余地があったのである。
 笠原メンタルクリニックが四ツ谷南署ではなく新宿署の管轄内にあることもあり、笠原令司の捜索には新宿署の刑事課も借り出されていた。捜査員が足りていることもあり、岡田と北島は刑事課に残っていたのである。
「北さん、JBCのやつらどこまで、掴んだと思う?」
 岡田が訊いた。
「山野晃子の主治医が失踪したというところまでだと思いますが…」
 北島は願望を込めて、そう答えた。
「しかし、少し賢いやつなら、なんでや、てことになるだろうな」
「ええ、普通なら、共犯者か、ということになるでしょうね」
「まさかと思うが、この時点で多重人格者の主治医自身が多重人格者で、愛人を殺しているかも知れないなんてことが報道されてみろ、とんでもないことになるぞ」
 さらに、山野晃子の解離性同一性障害は、創られたものかも知れないのだ。
 その時、電話が鳴った。刑事課のダイヤルインの電話であった。
『もしもし、覚えていらっしゃいますか。JBCの佐藤です』
 あの、インターネットカフェのドリームスを教えてくれた記者であった。
「困りますね。どうやって、この番号を知ったんですか」
『蛇の道はへびですよ。ところで、どこかでお会いできませんかね』
「あなただけ特別扱いというわけにはいきませんね」
『例の情報で捜査は進展したようですが…』
 佐藤は恩着せがましく言った。
 北島は、受話器を手のひらで覆って、岡田に相談した。岡田は黙って頷いた。
「わかりました。それではどこで?」
『人目につかないところで、そちらにも都合いい場所、例えば、帝都大のこころ池の辺りではいかがでしょうか…』
 偶然であるはずはなかった。佐藤はどこまで掴んだのであろうか。北島は背中にぞくっとくるものを感じた。
「北さん、性根を入れて、会ってきてくれ。場合によっては、取引ありだ。少なくとも、笠原の身柄を確保するまでは、報道させるわけにはいかない。頼んだぞ」
 岡田が真顔で言った。

 北島がこころ池に到着すると、佐藤はすでに来ていて、水面を見つめていた。振り返った。佐藤の表情は、以前のような笑顔ではなく、緊張した面持ちであった。
「佐藤さん、どういうお話でしょうか?」
 北島も緊張しながら声をかけた。
「もちろん、この一連の事件のことですが…」
「一連の?」
「ええ、一連の事件というべきだと思いますが…」
 北島は一瞬言葉に詰まった。佐藤はどこまで知っているのか。そう考えながら、佐藤を見つめていると、彼の態度が不思議に思えてきた。この前のような軽薄さが感じられないのである。口数も少なく、少し躊躇しながら話しているという印象である。
「実は、今の私はJBCの記者としてでなく、ある女性から事件解明を頼まれた男として、この事件に関わっているんです…」
「ああ、そういうことですか…」
 ここを指定したこと、そして、一連という表現をしたことを考え合わせると、ある女性が誰かはすぐに見当がついた。
「ええ、そうなんです。実は、ここの染谷百合子さんとは中学、高校と同級生でして…」
 佐藤がそう言ったその時、染谷百合子が医学部の玄関を出て、こちらに小走りにやってくるのが見えた。
「そんな偶然があるんですねぇ…」
 北島がしみじみと言った。
「ええ、昔から、彼女に頼まれると弱いんですよ。そんなわけで、ハイエナ稼業は後回しにして、捜査協力させていただきたいと思います」
 そこに染谷百合子が到着して、北島に申し訳なさそうに頭を下げた。
「すいません。一人で抱えていることが辛くなって…」
「仕方がないですね。幸い、佐藤さんもビジネスは後回しにしてくれるということですから…。それにしても、お二人が知り合いとは驚きました」
「ああ、それから、お断りしておきますが、この間のJBCのスクープの情報源は、ご存知のように、eメールからのタレコミで、彼女からではありません。それに、裏を取った相手でもありませんから…。誤解しないでください」
 佐藤は、強い口調で言った。
「ええ、染谷さんはそういう方じゃないと、私も思っています。安心してください。それで、捜査協力ということですが…」
「あの、笠原先生のいらっしゃる場所なんですが…」
 染谷百合子は性分なのか、誰に対しても丁寧な物言いをする。
「いわゆる潜伏先ということになりますが、こころあたりでもありますか?」
「ええ、あけみさんからいただいたメールが残っていますから、それが手がかりになるんじゃないかと…」
「なるほど。清水さんと笠原令司がどこかに旅行したことがあるということですね。そのことがメールに書かれていた…。そのメールを見せていただけるんですか?」
 染谷百合子は大きく頷いた。
「でも、百合子さんのプライバシーなんかはいいのかな。例えば、百合子さんの恋人のことについて清水さんが書いているというようなことは…」
 佐藤が口を挟んだ。
「そんな人いませんから、私のことは大丈夫です。清水さんのプライバシーは問題ですが…」
「それは心配しないでください。捜査に関係ない部分が外部に漏れないように細心の注意をしますから…。それに、今回は一番危ない佐藤さんが味方ですから…」
 北島が佐藤に視線を向けながら笑った。
「ひどいな。一番危ないなんて…」
 いつの間にか、三人に連帯感のようなものが生まれていた。

   5

 染谷百合子は、文京区にある帝都大学のキャンパスに通勤する都合で、同じ沿線の地下鉄千代田線の東北沢に、ワンルームのアパートを借りていた。偶然であるが、山野晃子のマンションがある代々木上原の隣りの駅であった。
「あのー、男の人をご招待するのは初めてなんです…」
 百合子は恥ずかしそうにそう言った。
「こんなことじゃなければ、嬉しいんですけど…」
 佐藤がそれに答えた。
 部屋に入ると、ほのかではあったが、柑橘系の香りがした。
「この香りは何ですか」
 と北島は思わず訊ねた。
「レモンバームです。気持ちに張りを持たせる効果というか、あけみさんのことであまりに悲しいから、自分を元気付けるために、このところこのエッセンシャルオイルを使っています」
 百合子は、棚に置いてあるたくさんの小さなビンの中からレモンバームのビンを手にとって、そう言った。
「ほう、この香りにはそんな効果があるんですか。私はリラックスのための香り、たとえばラベンダーとかマジョラムとかしか知りませんでしたから…」
 そう北島が言うと、佐藤が驚いたような顔をして北島の顔を見た。
「驚いたな。北島さんがアロマテラピーにそんなに詳しいなんて」
「いや、それだけしか知らないから、詳しいなんてことはないですよ」
「いえいえ、マジョラムですか? 僕なんか知らなかったわけですから…」
 佐藤はまだ話したがっていたが、北島は手で制して、染谷百合子に訊ねた。
「染谷さんは、アロマテラピーに関してはどうも趣味というだけではなさそうですね」
 アロマテラピーばかりでなく、香道に関する専門書の類がかなりの数、本棚に並んでいた。
「ええ、香りの心に対する効果が私の研究テーマですから」
 百合子はそう言った。
 北島は、笠原令司のクリニックでラベンダーの香りがしていたこと、そして、笠原の自宅での不思議な香りのことを思い出した。そう言えば、笠原純子には何の香りであるか聞きそびれてしまっていた。
「実は、最初に笠原クリニックを訪ねた時に、待合室にラベンダーの香りがしていました。ほのかにでしたが…」
「ええ、笠原先生もアロマテラピーに関しては相当ご研究していたと思います」
「そうすると、二人はライバル関係というわけですか」
 佐藤がそう言った。
「いえ、とんでもない。私はまだ研究生ですし…」
「でも、彼の場合は、精神分析やカウンセリングへ利用するためにアロマテラピーとかミュージックセラピーとかを学んだということでしょ」
「ええ、そうだと思いますけど」
「そうそう、そう言えば、笠原クリニックの診察室には、特注のミュージックチェアがありましたね」
北島が頷きながらそう言った。
「それは、あけみさんの影響だと思います。あけみさんはミュージックセラピーが研究テーマでしたから」
「ほう、清水あけみさんはミュージックセラピーが専門だったんですか」
「ミュージックセラピーですか」
 佐藤が腕を組みながらそう言った。
「もう少し詳しく言いますと、あけみさんは、もともとは障害者のためのミュージックセラピーを研究していました」
「障害者のための…」
 佐藤はますますわからないという表情を浮かべた。
 そのことに気づいて、染谷百合子はミュージックセラピーの基本的な考え方を説明した。
 そもそも、ミュージックセラピーは二十世紀のはじめに、アメリカで始まったといわれる。もともとは、精神病院に対する音楽慰問としてである。日本には、第二次世界大戦後、一九五〇年代に伝わり、アメリカ同様に精神病院の患者や障害を持った子供たちを対象としたものであった。その後、高度経済成長を経て、社会的なストレスが人々の心を蝕むようになり、ミュージックセラピーの応用分野は広がっていった。
「音楽療法には、能動的音楽療法と受動的音楽療法の二つがあります。知能障害があったり、自閉症だったりする子供たちには、楽器を使って音楽を演奏するような能動的な音楽療法があります。それに対して、基本的には健常者であり、大きな悲しみや仕事のプレッシャーで軽症うつ病になった人には、受動的な音楽療法ということになります」
 染谷百合子にそう説明されて、北島は笠原令司が言っていたことを思い出した。
「そう言えば、笠原クリニックを訪ねた時に、その話になりました。確か、悲しい時は、明るい音楽ではなく、むしろ淋しい音楽がいいと聞かされました」
「それは、『同質の原理』というものです」
「同質の原理ですか」
「ええ、患者の気分やからだのリズムに即した音楽を最初に聞かせるべきだというものです」
「わかるような気がするな。失恋したときは、失恋の歌を歌いたくなりますからね」
 佐藤が、二人に同意を求めるようにそう言った。北島はわずかに頷いたが、染谷百合子は首を傾げた。その様子を見て、佐藤は慌てて話題を変えた。
「人の悲しみの中では何が最大なのでしょうね」
「そうですね。一概には言えませんが、肉親の死、しかも、お子さんの死が最も大きなインパクトじゃないでしょうか。幼くして亡くなった場合は、そのお子さんの失われた未来を想い、成人してから亡くなった場合は、数え切れない想い出に、人は涙するのでしょう」
 北島と佐藤は黙って頷いた。
「それに、離婚もかなりのインパクトのようですね。様々なケースがあると思いますが、相手から拒絶されたという感情は、自己否定へと繋がりますから…」
 そこまで話して、百合子は話が思わぬ方向に流れてしまったことに気付いて、決まり悪そうな表情を浮かべた。
「話を戻しますと…」
 北島が軌道修正を行った。
「清水あけみさんは障害者のための音楽療法、つまり、能動的音楽療法を研究していたわけですよね」
「ええ、でも、最近はより普遍的な『癒し』の音の研究になっていたようです」
「そうすると、染谷さんも清水さんも『癒し』がこそが本質的なテーマで、そのために、染谷さんは香りを、清水さんはミュージックセラピーを含む音の研究をしていたということですね」
 北島がそれまでの話をまとめるようにそう言った。

   6

「さて、清水さんのメールの件ですが、何か重要な情報だと思われるものがありますか? たとえば、どこかへ旅行したとか…。勿論、笠原令司さんと一緒にですが」
「ええ、あります。旅行といっても日帰りですが、昨年の九月、十月、十一月とそれぞれ一日、合計三回になりますが、二人は秩父に出かけているようです」
 北島の質問に答えて、染谷百合子はその時に送られてきたメールを選んで、二人が見られるようにパソコンの画面上に開いた。
「秩父ですか。まさか、札所巡りじゃないでしょうね」
 佐藤は笑いながらそう言った。
「いえ、その札所巡りなんです」
「えっ、本当なんですか。二人にそんな趣味があるとは…。信じられないですね」
 佐藤は少し大げさに驚きを表明した。北島も意外に思いながら、一方で何か合点のいくものを感じていた。しかし、それが何故なのか明確にはわからないでいた。
「もともとは、あけみさんは秩父の山の音を研究していました」
 染谷百合子は不思議な話を始めた。
 清水あけみはミュージックセラピー、つまり音楽と心の関係を研究していた。その延長として、いや、むしろ音楽の原点である自然の音の研究へと歩を進めていたという。そして、森の音というべきか、山の音というべきか、秩父の自然が作り出す音が心を癒す効果を持つということに気づいたという。
「自然の音の中に心を癒すものがあるということは、言われてみれば、そうかも知れないと思いますが、とりわけ秩父の山の音というのはどういうことなんですか」
 北島が訊ねた。
「それは、秩父の地形的、地質学的特徴によるということでした」
「地形的、地質学的特徴ですか」
「ええ、秩父が石灰岩層でできていることはご存知ですよね」
「まあ、秩父がセメントの生産地であること、その原料が石灰岩であることは知っています」
「最大の要素は、石灰岩層の中を流れる地下水が発する音だと、あけみさんは考えていたようです」
「なるほど、地下水の流れが発する音ですか」
 北島と佐藤は半信半疑ではあったが、お互いに顔を見合わせて、頷きあった。
 「研究としては、天候や場所によって異なる音を録音して、動物や人間への影響を確かめるというものです。しかし、あけみさんは秩父が霊場として広く知られていることにも注目したのです」
「まさか、その地下水の音が関係していると…」
「あくまでも仮説ですけど、それが秩父という小さな盆地内に観音霊場の三十四札所が存在することの理由だと、あけみさんは考えたわけです」
 染谷百合子は、清水あけみがメールで断片的に送ってきた秩父札所巡りに関する知識を整理しながら、二人に説明した。
 秩父の三十四札所は、西国三十三札所、坂東三十三札所と合わせて、日本百観音巡りを構成している。注目すべき点は、西国にしても坂東にしても、数都府県にまたがっていて、秩父とは比較にならないほど広範囲に札所が点在していることである。ちなみに、西国三十三札所は十二世紀に成立して、その範囲は京都、大阪をはじめ、二府五県に及ぶ。また、坂東は十三世紀に成立したもので、その範囲は一都六県に及ぶ。秩父札所の場合は、一つの県どころか、埼玉県の旧秩父郡内にすべて在り、現在の行政区としては、秩父市・横瀬町・小鹿野町・吉田町・荒川村内で、直径約十六キロの円内に収まってしまう。
「あの、初歩的な質問なんですが、『札所』というのは、どういうことなんですか」
 佐藤が、少し申し訳なさそうに訊ねた。
「私も詳しいことはわかりませんが、そうですね、こんな言い方をすると、ばちが当たるかも知れませんが、ウォークラリーというか、そう、むしろスタンプラリーのようなものでしょうか」
「ははは、スタンプラリーですか。確かにそうですね。最近のスタンプラリーの方が、札所巡りを真似したと言うべきですよね」
 北島は思わず笑ってしまった。
 百合子は、おどけているのか、まじめなのか、「観音様、ごめんなさい」と、小さく手を合わせた。
「札というのは、もともとは表札のような木のお札だったようですね」
 北島が確認するように訊ねた。
「ええ、札所であるお寺などに、巡礼した証に自分の名前を墨で書いて納めたんだと思います。信仰という観点では、写経したものを納めるのが正しいわけで、そのための納経所が札所にはあります。最近では、納経帳とか納経軸とかに巡礼の証として、本尊の名を書いていただき、朱印をいただくようです」
「それが、スタンプラリーのようだということですね。なんとなく、札所がわかったような気がします」
 佐藤がそう言って、頷いた。
「染谷さん、よろしかったら、このメールのデータを私にいただけないでしょうか」
 北島が真顔になって、訊ねた。
「ええ、そちらのメールアドレスを教えていただければ、転送しておきます」
「ああ、それが速いですね」
 北島はそう言って、手帳を取り出し、メールアドレスを染谷百合子に伝えた。
「佐藤さんはどうしますか?」
 北島がそう訊ねると、
「僕は、秩父に実際に行ってみようと思います。自分の目で見てこそ、発見できることがあると思いますので…」
 と佐藤が応えた。
「私もご一緒してもいいですか?」
 染谷百合子は佐藤の顔を見つめて言った。
「ええ、勿論…」
 佐藤がかなりどぎまきしながらそう答えるのを見て、北島は思わず笑みを漏らした。

   7

 北島は署内で諮った上、本庁の菊田と、さいたま市にある清水あけみの実家を訪ねることにした。勿論、笠原令司の行方に関する聞き込みが目的ではあったが、北島としては、自殺とされている清水あけみの死に事件性があるかについても確認したいと思っていた。
 清水あけみは生前、さいたま市の旧浦和市地区にある岸町に両親と三人で住んでいた。家族としてはもう一人あけみの弟がいるが、現在は関西の大学に進学していて、そちらに住んでいる。父親の職業は埼玉県立高校の教諭で、現在は校長をしていた。
 電話で来意を告げると、不承不承、受けてくれた。その日は土曜日で、本来休日ではあったが、新学期が始まったばかりで、午後二時にならないと、父親の幾太郎は戻れないという。
 早めに到着した二人は、最寄の交番に立ち寄り、一応仁義を切り、巡査たちが知っていることを確認した。それによると、清水家はあけみの祖父の代から教師の家系で、祖父は中学の数学の教師、父は高校の理科の教師、母親が中学の音楽教師というものであった。あけみは母親の影響もあって、物心つく前からピアノを習い、結果として音楽療法を専門に選んだと思われる。そう言えば、北島は、子供の頃、音楽の教師から、世帯あたりのピアノ所有率は浦和市が日本一であるということを聞いたことを思い出した。
 一通り、交番で巡査たちからの話を聞いた後でも、まだ約束の時間までには三十分ほどあった。その間、二人は岸町周辺を散策してみた。
 岸町は、JR浦和駅の西口側に線路に沿って、南に広がっている文教住宅地区である。埼玉県では難関の女子高校として有名な県立浦和第一女子高等学校も岸町にある。
 その辺りでは、旧中山道がJR宇都宮線・高崎線から約二百メートルほど隔てた西側を、ほぼ平行して通っている。その旧中山道沿いにある神社に二人は行き着いた。
「この字は、つきのみやと読むんですか」
 菊田が神社の名前に驚いた。
 そこには、調神社があり、この「調」を「つきのみや」と読ませるという案内板がある。狛犬の代わりに大きなウサギの石像があり、月うさぎとの深い関係を思わせる神社であった。
「『しらべ』と言えば、音楽。清水あけみさんにふさわしい気がしますね」
 北島はそう言って、神社の中へ入って行った。
 旧中山道と住宅街に挟まれた、それほど大きくない神社ではあったが、樹齢数百年になろうかというケヤキの林があり、鬱蒼としている。
「そう言えば、ケヤキはおおつきとも言いますね。それで、つきのみやなのかも知れませんね」
 北島がそう言うと、「なるほど」と菊田が頷いた。
 清水あけみはこんな環境で育ったのだ、と北島は感慨に耽った。
 午後二時ちょうどに、四十年は経っていると思われる、木造二階建ての清水家を二人は訪ねた。あけみの母親佐和子が、寂しげではあったが、それでも笑顔で迎えてくれた。仏壇のある居間に通されると、清水幾太郎がすでに和服に着替えて待っていた。
「早くに戻られたんですね」
 自己紹介が済むと、北島がそう訊ねた。
「ええ、人をお待たせするのは性分に合いませんもので…」
 幾太郎の生真面目な性格が垣間見えた。
「そうとは知らず、私たちは遠慮して、近くの神社に行って来ました」
「ああ、調神社ですか。あけみの好きな場所でした…」
 そう言って、幾太郎は目頭を押さえたが、すぐに気を取り直して訊いた。
「それで、警察の方があけみのことで、どのような事をお調べなのでしょうか」
「実は、ある事件での重要参考人が行方不明になりまして、あけみさんの知り合いということでしたので、そのことを伺いたいと思いまして…」
 北島は、この時点であけみが自殺ではなく、殺された疑いがあるということを話すべきではない考えた。
「しかし、あけみはすでに亡くなっているわけですし…。その重要参考人とやらはあけみとどのような関係だったんですか」
「音楽療法を研究・実践するという意味で、同業者ということでしょうか。秩父にもご一緒に、山の音の研究に行かれているようです」
 他殺の可能性同様、清水あけみが失踪した笠原令司と不倫関係にあったことはまだ言うべきではないと考えたのである。
「そうですか。それで、具体的には…」
「辛いことをお伺いしますが、まず、お亡くなりになる直前の様子をお話いただけたらと思いまして…」
「それでしたら、佐和子の方がわかると思います。さあ、お話して…」
 幾太郎はそう言って、傍に控えていた佐和子を促した。
「あの娘が元気がなくなったのは、昨年の十月半ばくらいからでした。先ほど、お話にでた秩父から帰った後だと思います」
「昨年の秋には、確か三回秩父にお出かけになっているようなんですが、十月は二回目ということになりますね」
 北島は、確認する意味でそう訊ねた。
「ええ、確か十一月にも出かけています」
「最初の九月の時はどうだったんですか」
「元気だったと思います。いえ、以前より快活になったというか…。それなのに何故…」
 佐和子はそう言うと声を詰まらせた。
「十月の秩父で何かあったということでしょうか…」
 北島は質問とも自問ともとれるような言い方をした。
「ちょっと、いいですか?」
 そこで、幾太郎が口を挟んだ。
「先ほどからお伺いしていると、あなたがおっしゃった重要参考人と、あけみは秩父に三回出かけ、そこで何かがあって、おかしくなったということですか。その重要参考人とやらは、一体どんな男なんですか。その男が原因なんですか、あけみの自殺は…」
 幾太郎は多少気色ばんだ言い方をした。
「さあ、正直な話、私たちにもまだわからないんです」
 北島はなだめるようにそう答えた。
「いや、そんなはずはない。少なくとも、その男とあけみの関係はわかっているはずだ」
 幾太郎の興奮は治まらなかった。北島は菊田の目を見て頷くと、大きく息を吐いて、言った。
「それでは申し上げましょう。その男性とあけみさんは不倫の関係にあったと思われます」
「不倫の関係」
 幾太郎は絶句した。
「私たちは、別の事件でその男性を追っています。犯人ということではないのですが、行方がわからないのです。聞き込みで、清水あけみさんと親しくしていらしたということが判明しましたので…」
「親しく…。相手は結婚している男なのでしょ」
 幾太郎はまだショックから立ち直れないでいた。北島は黙って頷いた。
 暫らくの沈黙の後、幾太郎が覚悟を決めたように言った。
「秩父で何があったのか、私は知りたいと思います」
「私たちも同様です。それで、こちらに伺ったわけです」
「しかし、あけみは日記など書く習慣はありませんでしたし…」
 幾太郎は、佐和子に視線を送りながら言った。
「あの、いいですか」
 菊田が幾太郎と佐和子に話しかけた。
「お嬢さんの年頃ならば、パソコンを使われていたのでは?」
「ええ」
 幾太郎と佐和子は頷いた。
「パソコンの中に何かありませんでしたか」
「それが…」
 菊田の問いに対して、佐和子が何か言いかけて、幾太郎の目を見た。
「実は…」
 佐和子は夫が頷くのを確認して、この間の事情を話し始めた。
 昨年の十二月十五日に、あけみが自殺して、家族は一月ほどはショックで、何も手につかなかったという。年が明けて暫らくして、遺品の整理などをしている過程で、あけみの弟の拓也が、パソコンのすべてのデータが消失していることに気づいたという。
「ハードディスクがフォーマットされていたんですか」
 菊田が訊ねた。
「ええ、息子がそんなことを言っていました。私にはどういうことなのかよくわかりませんが…」
 佐和子は首を傾げながら、そう答えた。
「あけみさんがしたとは思えませんが…」
 菊田は、北島とアイコンタクトをとりながら言った。
「さあ、わかりません」
 佐和子は首を振った。
「その間、あけみさんのパソコンに触った方はいませんでしたか」
 北島が訊ねた。
「いえ、息子以外には…。ただ…」
「ただ?」
「ええ、実は…」
 佐和子によると、葬儀は市内の祭事場で行われたのであるが、その間にあけみの部屋に何者かが侵入した形跡があったというのである。庭に面した窓のガラスが小さく割られ、内鍵が外されていた。その部屋は、一番奥まったところにあったので、侵入者は人目に付かず、容易に進入することができた。しかし、紛失したものはなかったというのである。
「なるほど、その時にデータが消された可能性が高いですね」
 北島は腕を組んで頷いた。
「すると、侵入者はその、あけみの交際相手ということですか」
 幾太郎が訊いた。
「ええ、そう思われます。おそらく、知られては困る情報があった。いや、少なくとも、彼はそう思ったのでしょう」
「それは一体…」
 幾太郎は、そこまで言って、言葉に詰まった。その男の口から聞くしかないことであることは明らかであった。
 その後、北島と菊田は、経歴などあけみに関する基本的な事項を確認し、アルバムなどを見せてもらった。当然、笠原令司と写っているものはなかった。しかし、小さなアルバムとして、笠原と行った時ではない、秩父の写真があった。二人は、その写真を借りて帰ることにした。
 幾太郎は、何かわかったら、連絡してくれるように、繰り返し頼んで、二人を送り出した。

「確か、今日だったな。あの二人が秩父へ行くといっていたのは」
 岡田が北島に訊いた。
 他の署員は出払っていて、刑事課に残っているのは岡田と北島の二人だけであった。
「ええ、そうです。JBCの佐藤記者と帝都大学の染谷百合子の二人です。こちらが動くには、ちょっと根拠が弱いですからね」
 北島はそう答えた。
「しかし、二人が中学・高校の同級生だったとはね。世の中狭いもんだ。ところで、清水あけみのメールには、もう目を通したのかい」
「はい、三回は読み返しました。もっとも、メールは基本的に短く書かれているものですから、それほど時間がかかっていませんが…」
「そうか。それじゃ、秩父には大分詳しくなっただろうな」
「いえ、そんなことはありませんよ。メールに書かれていることだけですから。まあ、面白い話としては、正午になると、秩父ではエーデルワイスの曲が防災放送のスピーカーから流れることぐらいですかね」
 北島は笑いながらそう言ったのだが、岡田はまじめな顔で頷きながら言った。
「そう言えば、七、八年くらい前からそうだな」
「えっ、課長は秩父へ度々行かれるんですか?」
「ああ…」
 岡田は、暫らく腕を組み、視線をわずかに下に落として思いを巡らしていたが、顔を上げて話し始めた。
「まあ、お前さんも知っていると思うが、十年前に下の子を亡くしてな。女房のやつが参ってしまって…」
「……」
「それで、人の勧めもあって、秩父の札所巡りを始めたわけなんだ」
 岡田には、娘と息子の二人の子供がいた。しかし、息子は中学三年生の時に、交通事故で亡くなっていた。ちょうど十年前のことである。葬儀での岡田の妻の嘆きようは確かに大変なものだったことを北島は覚えている。
「実は、当時、高校受験のことで、かみさんと息子はうまくいってなくてな。車にはねられたのも、精神状態がよくなかったから、注意不足になって…」
 岡田は深いため息をついた。北島は黙って、頷いた。
「かみさんは、自責の念に苛まれてな。気力を失くして…。今度は、そんな母親を見ているのがいやだった娘が悪い仲間と付き合うようになって…」
 岡田の家庭の事情は、以前噂では聞いていたが、本人から話を聞くのは始めてであった。考えてみると、何日か前に、染谷百合子から、「人の最大の悲しみはわが子を亡くすこと」という話をきいたばかりであった。まして、死の原因の一つが自分にあるという思いは、尚更、悲しみを大きなものにしたに違いない。
「そんなわけで、息子が死んでから、半年ぐらい経ってから、俺が無理やりかみさんを秩父に連れていったんだ。効果はあったよ」
「そうですか。それで、今は?」
「ああ、最近では娘も一緒に札所巡りをしている」
 岡田は話したくないことであろうが、壊れていた家族関係が、現在のように回復するまでは、色々なことがあったと思われる。岡田が、自ら昇進を拒否しているのも、息子や家族に対する贖罪の気持ちがあるのではないかと、北島は思った。
「そうそう、あの話、地下水の音がサブリミナルな癒しの効果を持つというのは本当かも知れないな。もっとも、地表を流れる谷川のせせらぎも悪くないがな」
「それじゃ、課長は何回ぐらい秩父に行かれてるのですか」
「さあ、数え切れないな。特に去年だけで五・六回行っているよ。何しろ、午歳総開帳の年だったからな」
「午歳総開帳ですか?」
 北島は初めて聞く言葉であった。
「ああ、変化観音の中に馬頭観音というのがあるくらいで、馬と観音さんは縁が深い。それで、秩父では十二年ごと、午歳になると、普段厨子にしまったままの観音様を一般公開することにしている。確か、三月一日から十一月三十日まで、ということだったと思う」
「三十四札所すべてですか?」
「そうだ。何でも、もっと老舗の西国と坂東の札所の方が、広く点在しているために、総開帳に関しては足並みが揃わないそうだ。秩父はその点、まとまりがあるようだな」
「すると、笠原令司と清水あけみは総開帳の時に札所巡りをしていたわけですね」
「そう、観音様を拝んだということだな…。うん、待てよ。住田が殺された若葉町にも観音様があったな」
 岡田が表情を引き締めて言った。
「ええ、それで、あそこの坂が観音坂と呼ばれていると聞きました」
「北さん、地図はあるかい」
 二人は、管内の地図を広げた。
「これだな。真成院か。北さん、インターネットで調べられるか」
「ええ、山本や桜井のようには行きませんが…」
 北島が「若葉町」と「真成院」という二つのキーワードを入力して検索すると、真成院に関するページの一覧が出てきた。その中のいくつかのページを開くと、江戸三十三観音の十八番目となってる。北島が、江戸の観音札所というのがあることに驚いていると、岡田が言った。
「三大観音札所は、西国、坂東、これは関東のことだ、それに秩父なんだが、全国には百箇所はあると言われている」
「えっ。そうすると、三十三掛ける百ですか?」
「そうだ。俺も秩父に行くようになって知ったんだが、いわゆる観音信仰と言われるものは、庶民に広く浸透していて、観音様が祀られてる数はとんでもないことになるらしい。俺も、坊さんじゃないから、いい加減な知識なんだが、観音様についてちょっと説明しようか…」
 岡田はそう言って、話し始めた。
 仏教の起こりは、紀元前六世紀頃であるが、日本に伝わったのは、千年以上経ってからである。観音信仰は仏教が各地に伝播する過程で、紀元一世紀ごろ、インドの西北部で生まれたとされている。紀元五世紀には、中国で広く信仰されるようになり、日本には仏教伝来と時間差なく、観音信仰がもたらされたようである。
 一般的に観音、観音様と呼ばれることが多いが、正しくは観世音菩薩、別名として観自在菩薩も同じ仏である。仏には、いわゆる位の上下というものがあり、如来、菩薩、明王、天という順になる。如来は悟りを開いた人のことで、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来などが有名である。菩薩は、如来の前の段階で、未だ修行中ということになる。観音菩薩が人々に慕われるのは、自分たちに近い存在という面があるのかも知れない。
 その後、観音信仰の中では、ヒンズー教の影響もあって、密教的変化観音が出現する。千手千眼観音、十一面観音、馬頭観音、如意輪観音などである。
「とんだ仏教講義になってしまったな」
 岡田が照れくさそうに言った。
「いや、勉強になりました。課長がこんなに仏教に詳しいとは知りませんでした」
「よせよ。それより、真成院の観音様は何観音なんだ」
 ホームページには「潮干観音」とあるが、それはニックネームであり、観音の種類ではなかった。岡田にそう指摘されて、北島がホームページをさらに調べてみると、個人の日記のページに、江戸三十三観音の納経帳が掲載されていた。それには、「潮干十一面観音」とあった。
「えっ、十一面観音」
 北島が突然大きな声を上げたので、岡田は驚いた。
「どうしたんだ」
「見たんですよ。十一面観音」
 北島が遠くを見るような表情で言った。
「どこで」
「笠原令司の自宅の玄関です」
 そう言った時、北島は背中にぞくっとくるものを感じた。
「笠原令司の家ででか」
「ええ、そうです。この前、笠原夫人に事情聴取に行った時です」
「どういうことかな」
「どういうことでしょうか。この符合は」
 二人は、腕を組んで、暫らく考え込んだ。
「北さんよ。今度のヤマはとんでもないヤマかも知れないぞ」
 岡田は、真剣な顔をして言った。