コンサルティングという言葉に値するサービスが正しく提供され、正しく利用されることによって社会が享受できる利益はきわめて大きい。にもかかわらず、コンサルティング活用のための環境が整備されているとは言えない。
 どうも日本の企業の場合は内部の貧弱な経営資源だけで経営を行なう傾向が強過ぎる。コンサルティングを中心にした外部の経営資源を活用することをしない。
 一方、コンサルティング業務提供側に関して言えば、能力が不足していたり、有効性や経済性に関して説明する努力が不十分であったりという問題がある。
 この章ではまず、コンサルティング活用を妨げている要因を明らかにし、近年の社会的変化を踏まえての今後の展望を考えてみたい。


1 現状の問題点

コンサルティング活用の阻害要因

 本書の目的は再三述べてきたように、コンサルティングの役割や標準的な手順、あるいは料金全系、さらに活用のためのポイントを明らかにすることである。逆に言えば、本書が刊行される背景には、コンサルティングに関するこれらのことが一般的には理解されていないという、残念な現実がある。
 この認識を前提に、コンサルティング活用を妨げている社会的要因を見てみると、次の項目が考えられる。

  • コンサルティング活用阻害要因
  • □ コンサルティング機能に対する理解不足
  • □ コンサルティング提供側の能力不足
  • □ 料金の体系や水準、費用対効果が不明確
  • □ 機密、不正行為の秘匿
  • □ 経営に対する真摯な態度の欠如

 以下、前記の項目に関して考えてみよう。

コンサルティング機能に対する理解不足

 これまで説明してきたように、コンサルティングは使いようによっては外部の人的かつ情報的経営資源として高い価値を持っている。
 しかし、経営資源は必ずしも企業が所有していなくてもよいということが理解されていないため、コンサルティング活用が阻害されている。かなりの専門知識と経験が必要とされるプロジェクトの場合でも、多くの企業が社内の人員と情報で処理しょうとする。社内で処理することのメリットが大きな場合もあるが、CIプロジェクトのような繰り返し行なわれないプロジェクトに関しては社内だけで推進することは賢い選択とは言えない。
 本書の第3章をお読みになった方々はお分かりと思うが、コンサルティングの成否は利用する側の利用技術にこそかかっている。その技術の理解と取得が最初に必要なことではないだろうか。コンサルティングを相談や助言といった単なる辞書的な説明の範囲で捉えている限りでは、理解とは言えない。膨大な知識の体系と経験に裏打ちされ、問題解決の正しい手順を踏むものがコンサルティングの名に値することを知っていただきたい。
 そして、企業のあらゆる活動に関して、外部経営資源としてのコンサルティング活用の可能性を具体的に検討することが当然のこととして考慮されるようになるべきではないだろうか。

コンサルタントの能力不足

 次にコンサルティングサービス利用を妨げている要因に、業務提供側、つまりコンサルタントの能力の問題がある。
 第6章で見てきたように、コンサルタントに要求される専門知識とコミュニケーション能力はきわめて高い水準にある。しかも、新しい知識の獲得と能力の維持向上には時間もコストもかかる。もちろん、業務の中での能力アップもあるわけであるが、業務から離れた純粋な能力向上のための活動が必要と言われている。
 実績があって、忙しいコンサルタントはややもすると健全なる稼働率を超えて仕事を引き受けてしまう。その結果は能力の低下をもたらす。
 第4章の料金体系に関連して説明したが、低い料金は稼働率を危険レベルまで高め、能力開発コストを低下させ、結果として低い料金を恒常化させる。このような悪循環はコンサルティングに限ったことではないが、どこかで断ち切らなければならない。
 コンサルタントとしては、まず自らの能力を高め、正当な料金を請求する姿勢を持たなければならない。クライアントも高い能力には正当な料金を払うことが必要である。そうすることによって、良質なコンサルティングサービスの継続的な提供を受けることのできる環境が作られていくと思われる。

料金の体系や水準、費用対効果が不明確

 料金に関しては第4章で説明したことの繰り返しになるが、まず、料金体系や水準がどのように決まっているかについての説明が不足している。
 一般的に言ってクライアントは、時間当たり2万円から4万円というコンサルティングの料金水準を高いと思っている。確かに、学生アルバイトや派遣社員に比較すると10倍以上の時間給になる。中堅社員の時間給に比較しても数倍に当たることも事実である。
 しかし、コンサルタントが提供するわずかな時間の背後に、知識と経験の獲得のために費やされた膨大な時間とコストがあることを忘れてはならない。また、コンサルタントは日常的に新しい知識を吸収し続けなければならないため、クライアントに対して請求可能な実稼働時間はきわめて少ないということも知っておくべきことである。
 さて、料金の問題に関連してコンサルティングの費用対効果の問題が論議される。しかし、コンサルティングの費用対効果を厳密に測定することは可能なのか。そのコンサルティング業務が何に対してどの程度貢献したかという設問は果たして成り立つのか。大いに疑問がある。
 心証として、コンサルティングが役に立ったか役に立たなかったかという判断はできる。しかし、費用対効果という面からの評価は難しい。
 物事は単純な因果関係から成り立っていることは稀である。コンサルティングの効果として正しい判断が行なわれたとしても、社会や市場の状況によっては売上や利益に対しての効果は一様ではない。つまり、このような視点から、コンサルティングの費用対効果を論じることはできないのである。

機密、不正行為の秘匿

 これは第3章でも触れたことであるが、コンサルティングを受けることにより企業は恥部をさらけ出すこともある。そうなるのがいやで、コンサルティングを敬遠することも少なくない。
 これは人が医者にかかる場合を考えれば、想像ができる。診断を受けるには、普段人には見せることのない部分をさらさなければならない。みっともない格好をさせられることもある。ついつい逃げ腰になる。
 実は、医者も同様であるがコンサルティングでも、知り得た秘密は漏らさないという守秘義務がある。医者にしてもコンサルタントにしても信用が大切であるから、むやみなことで秘密が公開さることはないと考えてよい。それでも、欠点や弱点を他人に知られるということには、やはり抵抗がある。
 その秘密が重大な犯罪行為である場合は、万が一にも外部の人間による調査を許可する可能性はない。もちろん、コンサルタントとしてもそのような犯罪行為に連座することは願い下げである。
 このような社会倫理に反する行為が頻繁に行なわれている業界や市場では、本格的なコンサルティングを活用する土壌がないと言えるのではないだろうか。

経営に対する真摯しんしな態度の欠如

 日本の経営システムには、世界的にも評価され注目されている多くの長所がある。家族主義的な制度、稟議制度、QCサークルなど、世界最強の経済力を支えてきた経営システムがそうである。
 しかし、その反面、欠点も少なくない。いろいろな言い方ができると思うが、経営トップがアマチュアであるということが欠点の最大のものではないだろうか。また、これと相まって経営トップが責任を取る対象が不明確なことも大きなマイナスを生みだしている。
 アメリカの異常な訴訟天国的社会が必ずしもよいとは言えないが、自動焦点カメラの特許侵害訴訟事件や、科学会社の巨額な製造物責任訴訟事件などは、あまりにもいい加減な経営判断のツケではないかと思われる。リスクマネジメントという経営トップの必須科目を取得することなしに、経営者になってしまったとしか思えない。
 問題の所在や危険性を確認することなしに経営判断を行なうことは、最も戒められて然るべきだと考える。このような経営トップの甘さが許されている現状が、コンサルティング活用を阻害しているのである。

コンサルティングとコンサルタント

 さて、多少禅問答のようであるが、コンサルティングとコンサルタントの関係を論じてみたい。  以前にも説明したように「consult」はもともと「相談する」とか「助言を得る」あるいは「辞書をひく」という意味である。基本的には、コンサルタントは「専門的または技術的な助言を与える人」と定義してよいと思う。しかし、現実の社会でコンサルタントが意味するものとは、微妙にニュアンスの違いがある。
 中小企業診断士や技術士の資格を取った人がすべてコンサルタントではない。資格を取得しても、企業内にとどまることも少なくない。逆に、資格のない人がコンサルタントと名乗る自由もある。客観的に言って、「専門的または技術的な助言が与えられる人」かどうかはともかく、業務として、なんらかの「相談にのるつもりがある人」は、自らコンサルタントと称する。そのため、我々の感じ方としてコンサルタントは必ずしも「専門的または技術的」助言者とは思えない。残念なことになんとなく、うさん臭い人という印象がある。
 一方、コンサルティングという言葉は、比較的純粋に「専門的な相談にのること」あるいは「技術的な助言を与えること」というニュアンスがある。コンサルタントが前記のような人間的ではあるがマイナスの意味を包含するのに対し、コンサルティングは無機的ではあるが行為を明確にイメージさせる。
 先ほどのコンサルタントの能力不足とも関連して、悪貨が良貨を駆遂するという傾向を押しとどめる必要がある。これには、コンサルタント側の能力向上努力と同様にクライアント側の粗悪コンサルタント拒否という姿勢が条件になる。

セールスとコンサルティング

 コンサルティングと称しているものの中には、自社製品を売るために、付帯サービスとして行なわれているものも少なくない。これらがコンサルティング的であることは認めるが、筆者はモノを売るためにコンサルティングと称しているものは本当のコンサルティングではないと考える。
 コンサルティング業務であるならば、「買う必要がない」と言うべき場合があるはずだ。また、クライアントにとって、自分が扱っている商品がベストであるとは限らない場合はどうするのであろうか。
「客観的な判断、評価をしょうと思っても、どうしても自分の営業成績に頭がいってしまう」これはセールスマンからコンサルタントになった人が漏らした本音である。
 以前から、セールスマンは商品を売る前に自分を売れと言われてきた。これは商品自体の性能や価格もさることながら、セールスマンの誠意やサービス精神がセールス成功の重大な要素であるということを意味している。また、商品の有効活用に関するソフトの提供や、時には直接の取引から離れた情報の提供能力が評価のポイントになるということである。
 商品は顧客にとってベストではないが、セールスマン個人の付加価値の勝利、といった場合もある。また、粗悪品でない以上、良心は痛まないだろう。
 筆者にしても、商品の性能と価格に決定的な差がなければ、いままでもこのようなセールスマンと付き合ってきた。今後もセールスマンの個人的魅力や能力は、重要な要素であることはまちがいないと思われる。しかし、それだけでは済まない時代を迎えている。人間的魅力が商品の品質や性能よりも大きな要素であるのは、単機能の商品や他との関係を考えないで済む商品の場合のことである。最近では、ICやLSIといったマイクロエレクトロニクスの発展につれて、複雑な機能を持った商品やネットワークを前提としたシステム商品が増大しつつある。このような背景のもとに登場してきたのが「コンサルティングセールス」という概念である。
 コンサルティングセールスという言葉は、以前から使われていたものかも知れないが、1988年に山口弘明氏が日経文庫に書かれた「コンサルティングセールスの実際」によって表舞台に登場した。
 だれがどのような考え方をどのように名付けようが自由と言われればそれまでであるが、このコンサルティングセールスという言葉がすでに定着してしまっているのは残念なことである。
 山口氏は明確な定義をしていないし、これ以上、建設的でない論議はやめにする。もちろん、今後、より知的なセールスが必要なことに異論はない。ただ、本書が明確にしておきたいことは、先に述べたようにある特定の商品を売るための活動をコンサルティングとは呼ぶべきではないということである。

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第7章
コンサルティング、今後の課題と展望